森の文化誕生 「森の文明物語」 安田嘉憲

環濠作付稲作文明
安田嘉憲
はるかなる
稲作文明の旅

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森の文化 思想

  森の文化の原点

 氷河時代から後氷期への自然環境の激動の中で、日本列島が際立った特色を示すのは、世界に先駆けてブナの森が形成され、その森の文化が誕生したということである。

 日本の森の文化の原点は、最古の土器が出現する時代にまで遡る。世界最古の土器は日本から見つかっている。長崎県福井洞穴遺跡から隆起線文土器、同じく長崎県泉福寺洞穴遺跡の豆粒文土器(他・「ブナ林と古代史」の「縄文時代の土偶と土器」での「縄文土器が語る」小林 達雄著の部分も参照)などが、世界最古とされている。

 最古の土器文化の誕生の謎を探ることは、その後、一万年近くにわたって、世界に類のない温帯の落葉広葉樹の森の狩猟・採集社会に基盤を置く縄文文化を維持し、発展させることができた歴史的背景を探る出発点である。

 今日の日本文明が、海洋的風土のもとに熟成されたものであることは疑いない。その海洋的な風土を代表するのは豊なブナの森である。しかし、海洋的な風土は、日本列島に居住してから、ずっと存在し続けた訳ではない。最後の氷河時代の最寒冷期にあたる二万一千年〜一万八千年前、海面は現在より100m以上も低く、このため日本海は湖に近い閉塞状態となり、対馬暖流は日本海へ流入できなかった。

 冬季、日本海側に豪雪を降らすのは、対馬暖流の流入で、日本海の表面水温が、冬でも5〜10度に維持されているためである。冷え切ったシベリア高気圧との温度差が盛んな蒸発をもたらし、雪雲をつくり、日本海側に豪雪をもたらす。雪が多いということは、日本列島が海洋的風土に支配されていることの証でもある。

 ところが、対馬暖流が日本海へ流入できなかった氷河時代には、冬の雪が少なく、大陸的で乾燥した気候が日本列島を覆った。日本の風土は大陸と類似していたのである。

 大陸的気候が緩みはじめ、日本列島が大陸とは異なった独自の海洋的風土に変わり始めるのが、一万三千年前なのである。それはブナの花粉の増加で知ることができる。一万三千年前は、寒冷・乾燥した氷河期から温暖・湿潤な後氷期へ移り変わる移行期に当たっている。この氷河時代から後氷期への自然環境の激動の中で、日本列島が際立った特色を示すのは、世界に先駆けてブナの森が形成され、その森の文化が誕生したということである。

 一万三千年前、ブナの花粉が日本海の北緯40度以南の多雪地帯を中心として増加している。これに対し、朝鮮半島では既にブナ属は絶滅している。更に中国大陸でも、ブナ属の増加は顕著にではない。目をユーラシァ大陸の西部に移して見ても、トルコの黒海沿岸でオリエントブナが拡大するのは、8000年前以降、北西ヨーロッパのヨーロッパブナがアルプスを越えて拡大するのも、せいぜい6000年前以降のことである。

 日本列島にのみ、この時代以降ブナが拡大したのは、気候の温暖化により極地の氷河が溶け、海面が上昇して対馬暖流が流入すれば、直ちにブナの生育に適した積雪量の多い海洋的風土が形成されるという地理的位置にあったからである。

 世界最古の土器が誕生する時代が、丁度日本列島が大陸から孤立し、大陸とは異なった海洋的風土に適したブナの森が拡大する時代に相当しているのである。

 恐らく、草原に生息する大型哺乳動物を狩猟の対象とする旧石器時代の社会が、草原の縮小とブナなどの落葉広葉樹の森の拡大の中で次第に行き詰まった。

 積雪量の増加は、大型哺乳動物の冬の食料の確保を困難にし、絶滅に拍車をかけた。そうした環境の変化のなかで、人々は森の資源に強く依存する生活を考え出した。その証拠が土器の誕生なのである。日本人は世界に先駆けて、温帯の落葉広葉樹の森の資源に適応した技術革新をいち早く成し遂げ、森の文化を誕生させたのである。

 福井県鳥浜貝塚では、ブナ林の中で隆起線文土器をもった人々がヒシの実を採るなど、狩猟・採集を行っていたことがあきらかになっている。(このページの鳥浜貝塚の落葉広葉樹林と照葉樹林を参照)

 日本列島が大陸から孤立し、ブナ林の生育に適した海洋的風土が形成される中で誕生した最古の土器文化こそ、その後一万年以上にわたって日本文化の基層を形成する森の文化の原点である。

 隆起線文土器は、北海道を除く日本各地から発見されている。近年では、更に古い型の無文土器と呼ばれる土器も発見され始めた。一万三千年前の気候の温暖・湿潤化によって、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹のもりがゲリラのように拡大した時に、これらの土器もまた誕生している。その土器は、森のドングリ類や山菜、イノシシ・シカなどの動物の肉、それにサケなどの川魚を煮炊きする為の道具だったのである。

 土器を使って煮炊きすることによって肉や植物の繊維が柔らかくなり、ドングリのアク抜きも可能となる。煮沸による消毒の効果もあり、色んなものをごった煮することで新しい味さえ出すことができたのである。土器は森の資源を利用するための必需品だった。森の文化の誕生を最古の土器の出現に求める根拠は、まさにここにある。(「森の文明の物語」安田 喜憲著抜粋)

人間と環境・縄文集落の環境  岩波講座、西田正規著(抜粋)

    ムラの建設

  縄文時代の人々は自然が生産する資源に大きく依存していたとしても、彼等は、積極的に自然に働きかけ、それを改変もしていた。住居は気候の変化に影響されない空間を用意したし、森を伐採することで集落を日当りが良く乾燥した場所とした。生活に必要な様々な施設や装置を集落とその周辺に用意するために、大きな労力を投下していたのである。

 ムラの建設は森の伐採から始めなくてはならない。もしもその場所に日本の森林に普通である直径1mもの大木でもあれば、その一本を切り倒し、枝を払い、運べる大きさに切断して移動させるだけで、数人が協力したとしても何日もかかる仕事であったであろう。そのような場所は避けられたであろうが、集落適地が何処にでもあるわけではない。そして、更に低木を刈り、場合によっては切り株や根の処理が必要であろうし、整地が必要なこともあるだろう。

 採集や漁労、狩の効率は、それを行なう場所についての経験と知識によって大幅に高まることからすれば、蓄積された知識こそ彼等の経済を支えた最も重要な道具という事になる。集落を取り巻く環境は、たとえそれが、自然として

の環境であったとしても、川や山、道、狩場、漁場には名称が与えられたであろうし、そして高い密度の知識や経験の網に絡め取られた環境であった。それはもはや、単なる自然環境というものではない。食料や資財の種類や量、それを得る季節や必要な労力までが把握され、村人の活動スケジュールに組み込まれた環境である。

    集落周辺の植生

  集落を中心にした村人の活動は周囲の植生に大きな影響を与える。集落の周辺では、建築材、丸太舟や道具、繊維材料、薪などの集中的な伐採によって、森は絶えず破壊され、そこに明るく乾燥した裸地が広がり、このような場所を好む陽性植物が繁殖する。日本の二次植生を構成する主な植物は、我々になじみ深いものばかり、山菜や澱粉源、繊維材料、樹脂、薬用、子供の遊びに使われる植物の多くはこういうような植物である。

 クリの多い林が縄文集落の周辺にいつでも存在していることについて、縄文時代の人々がクリの多い場所を選んで集落を作ることもあっただろうが、大抵、クリが高い密度で成育することは殆どない。また、照葉樹林帯でも落葉広葉樹林帯においても、村人が集落の周辺で樹木を伐採し続ける限り、そこにクリやコナラ、ヤマザクラ、ヤマウルシ、ワラビ、フキ、ウド、キイチゴ類、イラクサなどの多い二次植生を出現させる生態学的メカニズムが自動的に働く。従って、縄文集落におけるクリ林の存在は彼等の集落立地の選択基準のいかんにかかわらず、定住生活による持続的な森林破壊の結果であると理解しなければならないのである。

 ムラ人は毎日のように家やムラの周辺にあるこれらの陽性植物の成長を見ながら生活することになり、それらの植物についての知識は一層深まるだろう。しかも村人は集落周辺の植物の成長には大きな影響力を発揮できる。使い道の無い植物は伐採され燃料にされ、踏みつけられることが多いだろうが、利用価値の高い植物に対しては何ほどかの配慮が払われるだろう。食料や建築材として用いられたクリの木は当然その対象になったであろうし、クリや又その他の有用植物の密度は人の影響下に無い自然の二次植生におけるよりもされに高くなるだろう。

 村人はどのクリの木が実を多くつけるか、密生したり、ツタ植物が絡んだりして十分な光を受けられないクリの木が僅かしか実をつけず、まばらに生えて光を一杯に受け、枝を広く張ったクリの木が多くの実をつけること、クリの木の下草を除草すれば落ちた実の採集効率が高くなるだけでなく、生産量も増加することは、すぐさま理解されたに違いない。

 ムラには人間という大きな動物が長期にわたって集団で住み続け、しかも彼

等は食料の殆どをここに運び込む。そのために、集落周辺には排泄物や食料廃棄物が集積してそこに窒素を多く含んだ土壌が形成される。集団周辺に集中してきた陽性植物は次第に肥沃な高窒素土壌に適応して大型化するだろう。

 クリやヤマイモ、キイチゴなど集落周辺の二次植生に生える植物は、人間だけでなくイノシシやサルなども好んで食べる。村人はここで、動物との競合関係においておのずと有利な立場にたっていることになる。また、もし獣が近づくことがあるなら狩猟の好機を増加させる。

 集落周辺の二次植生は彼等が伐採し、毎日眺め、採集し、選択し、植付け、保護し、そして他の動物の侵害を拒否する場所である。やがて明るく開けたこのようなムラの二次植生を、彼等の生活の様々な場面に取り込み、そして彼等の生活に無くてはならない重要な領域として認識したであろう。そのようなムラで育った人々が別の場所にムラを建設する時には、新しいムラの周囲の植生は、以前のムラの植生をモデルにしてより積極的に変えるだろうし、さらに有用な植物が新しいムラに運ばれるであろう。

 ムラの周囲の二次植生は村人の活動によって出現したものであり、それが彼等の経済において何ほどかの重要性を持っていたことは明らかである。自然としての環境において資源を得ることを採集というなら、ムラの二次植生における人間と植物の関係はすでに採集のカテゴリーには収まらない。栽培は人が有用植物の成長を次第により強くコントロールして行く過程である。

 縄文時代の集落においてその過程はすでに動き出していたと考えねばならない。     

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