縄文後期の中頃(約3500年前)、それまで安定していた海水準は再び低下を開始した。「弥生の小海退」の始まりである。この海面低下は以後千数百年以上続いた長期的な現象で、海退がピークに達した弥生時代(約2000年前)の海面は、現在より2〜3mも低かったと推定されている。

  東京湾岸ではこの海退に呼応するかのように貝塚が減少し始め、規模も次第に縮小していった。この傾向は縄文晩期に入ると一層進み、晩期中頃を最後に貝塚は東京湾岸域から消滅する。そしてこうした貝塚の衰退と反比例するように、晩期には獣骨や狩猟具の出土量が増加し、狩猟への傾向が顕著となってくる。

 東京湾岸域における貝塚の衰退は海退とよく同調しており、両者は一見直接の因果関係で結ばれているように見える。実際、魚介類を重要な生活の糧としていた縄文後期の「貝塚民」にとって、海退に伴う干潟の後退と湾の縮小は大きな痛手となったことだろう。

  ただし晩期には貝塚だけでなく遺跡全体が激減しているという点で、晩期後半に至っては湾岸全域から人間の活動痕跡が殆ど消失してしまうのである。

  こうした極端な人口減少が、海退という要因のみで引き起こされたとは考え難い。弥生の小海退は気候の寒冷化(弥生の小氷期)と連動した現象であり、降水量や植生などにも大きな変動があったことが指摘されている。

  海退と時を同じくして起こったこれら多くの環境変動の相乗効果によって、漁労の衰退、狩猟への傾倒、人口の減少などが相互に関連しながら進行したのではないかと想像される。

  縄文貝塚終焉のプロセスを解明するには、海退期における海陸の生態系の変化と人間社会全体との関係を含めた総合的な視点からの研究が必要となるだろう。

(樋泉 岳二・早稲田大学人間科学部非常勤講師)

貝塚 かいづか Kitchen Midden 人々が食べた貝類の殻が堆積(たいせき)してできた遺跡。貝塚は世界各地にあるが、そこから人骨や獣骨、土器、石器などさまざまな遺物が出土する。貝塚は日本の縄文時代〜弥生時代をはじめ、ヨーロッパの石器時代〜初期鉄器時代や北アメリカ先住民など文字をもたなかったり、後世にのこるような建物をほとんどもたなかった社会の研究上、とくに重要である。

考古学者による最初の貝塚の調査と発掘は、19世紀半ばにデンマークでおこなわれた。それらの貝塚は大きくまた古くからあったため自然の堆積と思われていたが、発掘によって貝殻や動物の骨などのほか、錐(きり)やナイフ、掻器(そうき)、ハンマー、投石器用の石、土器類が出てきた。海岸沿いには長さ305m以上、厚さが3mもの大貝塚もある。

貝塚は、貝類の豊富な海岸に定期的に居住した遊牧民や半遊牧民の生活記録として重要である。北アメリカでは東海岸や西海岸の各地で大貝塚の調査がおこなわれ、とくに南部地域では、スペイン文化の影響を強くうける以前の生活文化を知る貴重な手がかりをえている。

加曽利貝塚の貝層 加曽利貝塚は、千葉市桜木町の台地上にある日本最大級の貝塚である。これは縄文中期の北貝塚の貝層断面。ハマグリやアサリが23mの厚さに堆積(たいせき)している。千葉市立加曽利貝塚博物館

日本の貝塚

1877(明治10)アメリカの動物学者モースが東京で大森貝塚を発見し発掘調査を実施したのが、日本の貝塚研究の最初である。その後、関東地方を中心に全国的に縄文時代の貝塚が発掘調査され、現在では北海道から沖縄まで2000以上の貝塚が報告されている。縄文時代を中心に弥生時代〜古墳時代のものがあり、一部の地域で奈良時代〜平安時代までのこっている。

東京湾沿岸部にあった縄文時代の貝塚には、数十年から数百年間にわたって形成された馬蹄形貝塚とよばれるU字状の特殊な例がみられる。貝塚内からは食料としていた貝の殻、魚骨、獣骨、植物遺物はもちろんのこと、石器、土器、骨角器、木製品など人工遺物も多数出土する。

これらの遺物の詳細な分析から、たとえば貝の採集は時期をえらんで春ごろに集中していたこと、幼魚・稚魚などは比較的とっていなかったこと、犬をかっていたことなどが判明している。また埋葬された人骨もたびたび発見されることから、貝塚がたんなるごみ捨て場ではなく、縄文人の葬送祭祀(さいし)ともからむ神聖な場所だった可能性も指摘されている。

モース、大森貝塚を発見

アメリカの動物学者エドワード・S.モースは1877年(明治10)6月、腕足類研究のために来日し、横浜から東京にむかう途上の大森村で、車窓から貝塚とおぼしきものを発見した。そして9月16日、モースの指揮のもとで貝塚の発掘調査が開始された。この遺跡はやがて大森貝塚と名づけられ、日本における近代考古学発祥の地として、人々の記憶に深くきざまれることになる。79年、モースは調査の成果を“Shell Mounds of Omori”にまとめて刊行し、その邦訳版は『大森介墟古物編』(矢田部良吉訳)として出版された。もちろんこれは、日本ではじめての発掘調査報告書である。ここに掲載したのは、時の文部大輔(たいふ:文部大臣)田中不二麿が発掘のようすを上申した報告書である。

[出典]『朝野新聞』1877(明治10)1216

一昨十四日田中文部大輔より上申になりし大森村古物発見概記の写

考古学ノ世ニ明ラカナラザルヤ久シ、曩(さき)ニ漸(ようや)ク古物学ノ一派欧米各国ニ起リシヨリ、古代ノ工様ヲ今日ニ徴スベキ者ハ普(あまね)ク之ヲ採集シテ博物館ニ貯蔵シ或ハ之ガ為メ特ニ列品室ヲ設クル等競テ下手セザルハナキニ至レリ。現ニ東京大学理学部教授米国人エドワルド、エス、モールス氏亦夙(つと)ニ意ヲ此ニ着シ、乃(すなわち)大学ニ於テ特ニ列品室ヲ創置センヲ明シ、嘗(かつ)テ古物採集ノ挙ニ拮据セシニ、本年九月中汽車ニ駕シ東京府下大森村ヲ駛行(しこう)スルノ際、玻璃窓〔ガラス窓〕ヲ隔テテ、一丘崖ノ貝殻ヲ堆挟シ隠々トシテ含有物アルノ兆象ヲ瞥見(べっけん)シ、心頭頗(すこぶ)ル感触ヲ発シ他日二三ノ生徒ヲ率ヰテ其地ニ至リ更ニ確鑑スル所アリ。因テ□〔1字不明〕掘ノ工ヲ起セシニ、果シテ古代人種ノ製造ニ係レル物品ノ埋セルヲ発見セリ。其種類ハ凡(およ)ソ奇形ノ陶器或ハ牙角及石製ノ器具等ニテ其他未ダ何状何用タルヲ詳(つまびらか)ニセザルモノ若干アリ、是ニ於テ該品ハ悉皆大学ノ所有ニ帰セシメ、其中各色ノ文彩ヲ存シ、体質苟完ナル部類ヲ撰択シテ教育博物館ノ儲備トナセリ。茲(ここ)ニモールス氏ノ所見ニ拠ルニ、此発見品ノ中同種ニシテ複出スルモノハ、之ヲ海外著名ノ博物学士ニ逓与シ其国剰余ノ古物ト交換セバ、互ニ地球上往古人種ノ実蹟ヲ徴照スルノ利益アルベク、且(かつ)此種ノ品類ハ務メテ之ヲ悠久ニ保存シ、私利ヲ営ズルノ徒ヲシテ或ハ海外ニ濫出セシムル等ノ弊害ヲ未萌ニ防止スベキ緊務トナセリ、今謹デ該品ヲ把テ聖覧ニ供スルニ方(あた)リ、聊(いささ)カ事由ヲ概記シテ進呈ス。  明治十年十二月

  文部大輔 田中不二麿

このページのトップへ