先史時代

先史時代

   13,000年前 - 12,000年前    日本最初の土器

  日本最古といわれる土器は、長崎県の福井洞窟から細石刃(さいせきじん)とともにみつかった隆起線文土器や、同県の泉福寺洞窟出土の豆粒文土器(とうりゅうもんどき)などが有名である。豆粒文は土器表面に粘土の小粒をはりつけたもので、粘土ひもをはりつけた隆起線文の一種という説もある。これら隆起線文系土器が前11000年ごろにはじまる縄文時代草創期の土器の中でもっとも古いものとされ、本州各地でみつかっている。しかし近年、無文土器などで隆起線文土器より古い土器の存在も明らかになりつつある。

  青森県蟹田町の大平山元T(おおだいやまもといち)遺跡から出土した薄い線刻をもつ土器片は最新の科学的年代測定法で前14500年のものとされ、土器文化の始まりがさらに3000年以上もさかのぼる可能性が指摘されている。

  12,000年前   中石器時代始まる

  前1万年ごろに気候の温暖化とともに氷河が後退しはじめ、生活環境がいちじるしくかわったことから中石器時代がはじまった。旧石器時代から新石器時代への過渡期的時代で、おもにヨーロッパでつかわれてきた用語である。この時代の大きな特徴は、三角形や台形といった幾何学形細石器が数多く使用されることで、北西ヨーロッパの森林地帯では前7000年ごろにフリント製鏃(やじり)の弓矢なども発達したが、依然として狩猟採集生活がおこなわれている。そのため、文化的に旧石器時代とあまり変わりがなく、旧石器時代の終末期としてこの用語を使用しない学者も多い。

  しかし、始まりに地域による時差があるものの、ヨーロッパからオリエント地域では中石器文化的な特徴がかなりはっきりとみられ、農耕と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作といった新石器時代の文化の特徴が中石器時代終末期にみられる。その終わり、すなわち新石器時代の始まりも地域によってかなりの違いがある。オリエントでは前8000年ごろであるが、ヨーロッパではギリシャなどはやいところで前6000〜前5000年ごろ、デンマークやスカンディナビア半島などおそいところでは前3000年ごろまで中石器時代がつづいた。

   12,000年前 - 7000年頃    世界各地で細石器文化隆盛

  地域によって時間差があるが、このころ西アジアやヨーロッパ、北アフリカなどで細石器が盛んにつかわれた。細石器の使用は中石器時代の文化の大きな特徴である。日本の細石器(細石刃)文化が発展したのは14000年前〜12000年前ごろで、これより少しはやい。

  前8000年頃   メソポタミアで新石器時代始まる

  石器時代の最終末期である新石器時代の特徴は、食糧生産(農耕)と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作であり、とくに食糧生産が重要である。パレスティナを中心にみられる中石器時代のナトゥーフ文化では前1万年ごろに集落ともいえる定住地をいとなんでおり、この地域では前9000年以降、ヒツジやヤギなどの家畜化もみられる。しかし、これらはまだ採集経済のため新石器文化とはいえない。前8500〜前8000年ごろ、ヨルダンのエリコやシリアでムギなど穀類の生産がはじまり、前8000〜前7000年ごろに農耕文化が肥沃(ひよく)なメソポタミアに広がったと考えられている。人類最初の新石器時代のはじまりである。メソポタミアでの土器の出現は前7000年以降であるため、これらの文化は先土器新石器文化とよばれている。

  8000年頃 - 7000年頃    地中海東部海岸で交易が活発化

  人々が定住生活をはじめる新石器時代になると地域的な分業化がすすみ、産地のかぎられた貴重な天然資源と農産物などとの交易が活発化していった。とくに地中海の東海岸部にあるパレスティナは、地中海沿岸部と内陸部をむすぶ交易の中心としてさかえた。死海の塩、シナイ半島のトルコ石、石器の原材料となるアナトリア半島の黒曜石などが重要な交易品で盛んに取引された。

  5000年頃   沖縄貝塚時代始まる

  沖縄では、本土の縄文時代〜平安時代にあたる新石器時代を独自に貝塚時代とよぶ。島嶼性(とうしょせい)が強く、貝塚が多いことなどからである。7000年前ごろにはじまる渡具知東原遺跡(とぐちあがりばるいせき)などからは縄文時代前期に相当する遺物がみつかっており、かなり縄文文化の影響がみられ、九州から縄文人が移住してきたとも考えられる。また前2世紀ごろには土器など弥生文化も入ってきているが、豊かな自然条件のもとでほぼ12世紀初頭まで本格的な農耕はほとんどおこなわれなかった。

  4000年頃   縄文海進

  約1万年前から海進がはじまり、6000年前にその最盛期をむかえた。最盛期には海面が、現在より約2m高かったことが判明している。関東平野の貝塚遺跡の分布をみると、海が平野の奥まで入ってきたことをしめしている。

  3000  三内丸山遺跡に大集落

  青森市南西の河岸段丘上にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、縄文時代前期から中期の集落遺跡だが、最盛期は中期の前3000年ころで、一説に人口500人ともいわれる縄文時代有数の大集落がいとなまれていた。これらの遺構や遺物は従来の縄文時代のイメージを大きくかえるものだった。有機質遺物が多数発見されており、植物遺伝子の調査から、この時代にすでにクリやマメの管理栽培がおこなわれていたことが確実視された。さらに新潟県糸魚川(いといがわ)産のヒスイや、北海道産の黒曜石などの発見により交易圏の広さもうらづけられた。また軟弱な地盤に直径1mものクリの木柱を6本も設置した大型の掘立柱(ほったてばしら)建物は、高度な土木技術のあったことしめしている。

このページのトップへ