海洋・沿海漁労民的な民族とされるオホーツク人の主たる生業の場は海である。したがってその住まいをオホーツク海に近い台地や河口部の周辺に求めたのは必然的でもある。
約七世紀から十一世紀にかけて展開した彼らの文化の中で特徴的なものの一つが住居である。初期の頃は大型の長方形の形態であったが、八世紀から九世紀頃の隆盛期では亀甲状の五角形か六角形を呈する様になる。
大きいものは長軸一五メートルを越えるものも現われるなど極めて大型化する。
図1 トコロチャシ跡遺跡1号竪穴
この様な住居の大型化は生産基盤の確立家族形態の変化が要因とされる。その大型住居もしだいに小型化の傾向をみせ、石囲み炉など一部は残るが、精神的側面をもつ骨塚は見られなくなる。この変化は擦文文化の接触・融合によりもたらされたものだが、異質な両文化が地域的なトビニタイ文化として受け継がれていくことに北方民族のダイナミズムがある。
住居の内部
オホーツク人の住居建設はまず地面を掘ることから開始される。
掘りあげた土砂は外縁部に盛り上げられ、周堤を築く。周堤化することがより住居を深めることとなる。砂地に築かれた場合では、中央に位置する方形の石囲み炉を囲む様に粘土を「コ」字状に貼り付け土間とした。
これは足元を安定させるためと考えられるもので、十五号竪穴は火災による火熱を受け赤変している。粘土は約三〜四センチメートルほど厚く貼られている。土間の面積は約三五平方メートルあり少なくとも一四〇キログラム以上の粘土が使用されたことになる。粘土は近くの河床から採取、運搬したのであろう。通常、この土間からの遺物の出土は多くなく、共同のユーティリティスペースとされる空間である。
図3オホーツク文化竪穴住居の間取り
これに対して遺物が最も多く出土する区域がある。個人的な居住空間とされる場所である。
土間と板壁の間の幅約一・二〇〜一・七〇メートルの場所である。この場所ではベッド状の段差が付けられていたことが斜里町ウトロ海岸砂丘遺跡一号竪穴で確認されているが、羅臼町松法川北岸遺跡十二号、十三号竪穴では土間と水平に板敷きとし、礼文町香深井遺跡一号d竪穴では土間と同様に粘土を貼る例も確認されている。
基本的にはベッド、板敷きの二通りの方法が考えられる。この変化は地域性によるものなのか、集団間の構成員による規制なのか明らかでないが、十五号竪穴の場合は各遺物の出土状況からベッド構造になっていたと推測できる。 ベッドには干し草や海獣・鹿などの毛皮が敷かれていたのであろう。
一方、最も特徴的な空間が祭祀的空間である。各種の動物骨が置かれる区域であり、入口の対面方向にある張りの弱い妻側にある。
オホーツク文化を最も特徴づける「骨塚」と称する場所である。常呂川河口遺跡十五号竪穴では四二個体、トコロチャシ跡遺跡七号竪穴では百個体以上に及ぶクマが確認されている。クマを最高位とした動物祭祀が行われた場所であり、クマ彫刻品が出土することもそれを裏付けている。
一般的にこの面の区域は角形を呈するものの土間は反して平行的である。したがってこの面の内部は広くなる。五角形の場合でも僅かであるが張り出しており、骨塚形成のため広い空間が必要されたと解釈できる。
骨塚は動物祭祀という儀礼行為も大きな要素であるが、家族・集団の統率化の役割もあったのであろう。精神的背景の確立が骨塚形成と関連して六角形への住居変化をもたらしたと考えられる。
それでは内部の建築構造はどうであったのだろうか。構造材として利用されていた樹木は腐食するため残らないが、火災を受けた場合は偶然にも炭化した状態で発見される。最近調査された常呂川河口遺跡十五号竪穴、トコロチャシ跡遺跡七号竪穴の調査は建築手法を解く手懸かりが得られている。
オホーツク文化の住居では長軸面に棟持柱をもつのが一般的であり、貼床の外側に主柱が配置されると考えられる。トコロチャシ跡遺跡七号竪穴の主柱では直径約一〇センチメートルの小丸太七本を白樺樹皮で丸めて一組にしていることが判明した。
深く掘られた壁面は板材や丸太を並べ、自樺樹皮の内側に縦の板材を置き、さらにその内側の根もとには角材や丸太材を横に置き、丸太で支えているなど丁寧に建設されている。
板壁の土面に接する部分にはやはり白樺樹皮をあてている。常呂川河口遺跡十五号では屋根材に白樺樹皮が利用されており、樹皮は木釘で固定されていた。
棟木から主柱、板壁上部の周堤に向かって垂木が密に配置された切妻式の建物であったと想像される。屋根には土がかぶせられたのであろう。地面を深く掘り、屋根に土をかぶせることは室内の暖房効果を高めることになり、北方地域の人々の生活の知恵である。
図4 白樺樹皮出土状況
住居を考える場合問題となるのは入口である。
オホーツク文化の場合張りの強い妻側、つまり「コ」字状に貼られた土間の開口部にあったものと推測される。常呂川河口遺跡十五号竪穴では板壁を埋設する周溝の一部が断絶していることからも推測できる。一方、カムチャダール(図5)、アリュートは天井に設けられた煙出し口に梯子をかけ出入りしていたとされ、ニブヒもクマ祭りに骨、イナウなどを出し入れする風習があったとされる。
図5 カムチャダールの竪穴内部
オホーツク文化では住居の規模と比較しても中央の炉だけでは充分な照明にはならない。炉の上部が煙出し口、明かりとりのために開口されていたと考えるのが妥当であろう。
それを確認できる発掘資料はないが、民族誌的事例がその存在を物語っている様である。あるいは海岸コリヤーク同様に冬期間は天井から出入りし、夏期は側面の入口を利用していたとも考えられる。
住居を形作るこの様な構造材は周辺にある各種の樹木を利用している。常呂川河口遺跡十五号では板壁材に針葉樹(モミ属・イチイ)を多く利用する。板状に割りやすい特質を熟知していたのである。他の構造材には硬い広葉樹(ハンノキ属・トネリコ属など)が見られる。屋根材等に用いる白樺樹皮は腐食に強いとされ、用途に応じた木材選択を行っている。
樹木の伐採、半割は鉄斧、磨製石斧、楔などが利用されたが、大型住居を建設するために周辺森林のかなりの樹木、樹皮が消費されたであろう。地面掘りから粘土の採取・運搬、樹木の伐採・運搬、組み立て・樹皮葺きは相当の労力を必要とした。大型住居の建設は長期間の定住を意図したものであり、それらの労力の背景には複数の家族、同一集団の存在がみえる。
拡大家族の住居
オホーツク文化の住居は大型であるため複数家族が同居すると指摘されてきた。大井晴男は「血縁的につながるいくつかの核家族を含む、おそらく、三世代前後の、人間集団であった」と指摘し、さらに「一核家族――婚姻関係にある一対の男女とその未婚の子女――よりも大きい人間集団が同居していたことが考えられよう。」と説いているが実態は不明のままであった。
ところが常呂川河口遺跡十五号竪穴からは特大六個、大型十個、中型十三個、小型十五個の四四個体に及ぶ土器が出土した。それぞれの土器は数個がセットとなっている。しかも土器以外の石器・骨角器・鉄器・炭化木製品、網走市モヨロ貝塚例にもある帯留めと考えられるクックルケシ状牙製品などもそれほどのばらつきを見せずにまとまりをもっている。
十五号竪穴は焼失住居であるが、不意の火災に遭遇し、各種の遺物は持ち出す暇もなかったのであろう。したがって生活当時のまま置かれていたと推測される。各種遺物の分布を検討した結果I域からVII域に区分された。
I域は骨塚側に位置するもので特大土器五個が伏せられた状態で出土。土器の文様はソーメン文様の他に動物意匠、記号状貼付文が施される。
骨塚側で発見される特大土器に動物意匠、記号状貼付文が施される例は栄浦第二遺跡二五号竪穴がある。骨塚上部から動物意匠、記号状貼付文のある土器が入子になって出土。同遺跡二三号竪穴の骨塚にも記号状貼付文をもつ土器がある。これらの例は小型・中型・大型の土器と明らかに異なりを見せる。
II域からVII域が核家族の居住空間であったものと理解され、家族毎の占有空間は樹皮、毛皮などで仕切られていたと思われる。骨塚側で伏せられていた特大土器はこれらの家族の共有物であり、骨塚祭祀と関連するものと考えられる。
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図6 III域。大・中・小型土器出土状況 |
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常呂川河口遺跡15号竪穴出土遺物分布図
I域の骨塚側に伏せられた特大土器
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写真57 モヨロ貝塚 |
写真58 オホーツク土器 |
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写真59 オホーツク土器 |
写真60 オホーツク土器 |
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写真61 オホーツク土器 |
写真62 オホーツク土器 |
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写真63 オホーツク土器 |
写真64 オホーツク土器 |
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写真65 オホーツク土器 |
写真66 オホーツク土器 |
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参考資料1 オホーツク土器 |
参考資料2 オホーツク土器 |
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参考資料3 オホーツク土器 |
参考資料4 オホーツク土器 |
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参考資料5 オホーツク土器 |
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