北海道の成立

北海道島の成立(「旧石器・縄文文化」野村 祟 宇田川 洋編)

   北海道島の成立

 北海道の骨格部としては、日高山脈が知られている。約1600万年前、(新第三紀中新世紀=新生代の地質年代の区分。約6500万年前から約164万年前までの間をさす。第三紀という名は18世紀に北イタリアの地層を古いほうから初源層、第二層、第三層と区分したときの3番目の層ということに由来している。第三紀はさらに短い地質年代上の時代区分である世にわけられ、時代の古い順に、暁新世、始新世、漸新世、中新世、鮮新世とよばれている。そのうちの漸新世までを古第三紀、中新世と鮮新世を新第三紀として2330万年前を境に2つに区分することもある。 松前半島の大千軒岳(1072m)から北へ黒松内岳(740m)までつづく脊梁(せきりょう)山地は東北地方の延長部にあたり、古生層の基盤の上を緑色凝灰岩などの新第三紀層がおおう。北西部の狩場(かりば)山地は第三紀末〜第四紀更新世に噴出した狩場山(1520m)を主峰とする火山群からなり、山腹には千走(ちわせ)川などの浸食による深い峡谷がみられる。半島南東部につらなる駒ヶ岳、横津岳、恵山(えさん)の各火山が亀田半島の尾根を形成する。道内ではもっとも温暖で、ブナ、トチノキなどの温帯林や竹林がみられ、石狩、勇払低地以東の北海道本体部とはことなる植物相をしめす。地質年代の区分

 日本列島が大陸から離れ緑海(古日本海)ができると、太平洋(太平洋プレート)の沈み込みに対して現在のような日本海溝と千島海溝が成立した。

日本列島付近の海溝

海溝は、プレートが地球内部にしずみこむところである。日本の周辺海域には太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界にそって千島海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝があり、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界にそって南西諸島海溝(琉球海溝)がある。なお、この図はコンピュータ処理により垂直方向は水平方向にくらべ約40倍に拡大されている。

日本海溝 にほんかいこう Japan Trench 東北日本の沖合約300kmに長くつづく幅の狭い海底の深まり。北は襟裳岬沖で千島・カムチャツカ海溝と接し、南は房総半島南東沖で伊豆・小笠原海溝と接する。かつてはこれらの2つの海溝もふくめ日本海溝とよんでいたが、海溝と島弧の対応性から3分された。長さは800kmほどで、幅は約100km。深さは、北部で7600m、南にいくほど階段状に深くなり、海溝底はV字形となっている。最深部は8020mで、鹿島灘(かしまなだ)沖の北緯3604分、東経14245分の位置である。

襟裳岬の南東185km沖の最北端には襟裳海山(4200m)があり、この海山の頂上部は水面下3735mとなっている。南端の房総半島沖では、日本海溝と伊豆・小笠原海溝と相模トラフ( 相模湾)が合流しており、「房総沖海溝三重点」とよばれている。ここは、太平洋プレート( プレート)とユーラシアプレート、フィリピン海プレートの接点にあたる。

海溝は、海底のプレートがまがりながら、大陸のプレートの下にしずみこんでいく場所と考えられている( 沈み込み帯)。日本海溝でも、中央海嶺(東太平洋海膨)で誕生した太平洋プレートが、1億年以上かけて1kmの距離を移動したのち、日本列島をのせたプレートの下にもぐりこんでいる。プレートはひっぱられてまがっていくので、海底斜面には多数の正断層( 断層)ができる。低温でかたいプレートが、しずみこんでいくようすは、深発地震の震源の解析からわかる。

千島・カムチャツカ海溝 ちしまカムチャツカかいこう Kuruil-Kamchatka Trench カムチャツカ半島南東沖に位置するコマンドルスキー諸島の南西から襟裳岬沖まで、千島列島にそって北東から南西にのびる海溝。なお、襟裳岬の南東185km沖には日本海溝の最北端にあたる襟裳海山がある。この海山は高さが4200mもあるが、その頂上部は水面下3735mである。千島・カムチャツカ海溝の長さは約2200kmで、平均幅は120km

海溝側斜面は陸側が急で、大洋側はゆるい。深さは北方では6000m、南方では9000mをこえる。最深部は択捉島東方の北緯4409分、東経15030分にあり、9550m。海溝にそったかたちで火山帯や深発地震帯があり、また岩石の比重の違いから生ずる負の重力異常帯が存在している。

 それによって、千島弧が西進し、北海道島に直接衝突を開始した。そのため、二つの島弧の接合部に位置することとなった北海道島は、それ以来、火山の噴火や地震が頻繁に起こる地域となっていった。

 衝突部では地殻がめくれ上がり、地下深部の岩石が地表に現れた。こうして、約1千万年前(新第三紀中新世後期)に日高山脈の隆起が始まったが、それは遠いアフリカの地で人類が誕生するより約500万年も前のことである。

   海から顔をだした「陸橋」

 現在、我々が目にしている自然界は、地球の歴史の中で、最も新しい時代の「第四期」に出来上がった。

 温暖期と寒冷期の繰り返しは、地球上に生息していた生物に多大な影響を与えることとなった。しかも、四方を海に囲まれ、南北に海峡が存在する北海道島の周辺域は、温暖期と寒冷期で大きく姿を変えることとなった。

 特に、氷期では各海峡の海底(間宮海峡:水深約10m、宗谷海峡:約50m、津軽海峡:約120m)が、海退の規模によって海から顔を出したため、大陸(又は本州)を結ぶ「陸橋」となった。したがって、氷期の北海道では、これらの陸橋を通って時には南北両ルートから、時には北方ルートから様々な生物が往来することとなった。

 現在まで北海道で発見されているゾウ化石としては、4種類が知られている。即ち、マンモス系列のゾウが3種類とオアレオロクソドン系列のゾウが1種類(ナウマンゾウ)である。

 北海道における前期更新世(=更新世 こうしんせい 地質時代、約164万年〜約1万年前までの一区分で、第四紀の前半にあたる。洪積世、最新世、氷河時代ともよばれる。ホモ・エレクトゥス(原人)が出現し、現代人の段階まで進化した時代であり、考古学上の編年では旧石器時代と縄文時代草創期に相当する。)(松前半島の大千軒岳(1072m)から北へ黒松内岳(740m)までつづく脊梁(せきりょう)山地は東北地方の延長部にあたり、古生層の基盤の上を緑色凝灰岩などの新第三紀層がおおう。北西部の狩場(かりば)山地は第三紀末〜第四紀更新世に噴出した狩場山(1520m)を主峰とする火山群からなり、山腹には千走(ちわせ)川などの浸食による深い峡谷がみられる。半島南東部につらなる駒ヶ岳、横津岳、恵山(えさん)の各火山が亀田半島の尾根を形成する。

道内ではもっとも温暖で、ブナ、トチノキなどの温帯林や竹林がみられ、石狩、勇払低地以東の北海道本体部とはことなる植物相をしめす。)

のゾウ類化石は、石狩低地帯(千歳市のキウス遺跡群)の野幌丘陵南部にある北広島市音江別川流域に分布する約120万年前〜80万年前に堆積した地層(下野幌層:前期更新世)の基底砂礫層から発見された。

 下野幌層からは貝化石も多数産出している。

 基底部の砂礫層から産出する貝化石は、エゾチドリガイ、オホーツクバイ、マルフミガイ類などの寒流系種が多く占める。

 絶滅種が全種数の約20%含んでいる。産出した二枚貝化石の中には、外洋水に生息する種(マルフミガイ類など)も多く含まれている。

 この砂礫層の石狩丘陵にもみられ、さらに北部石狩低地帯地表下(基底分布高度:約−170〜−130m)、南部石狩低地帯(苫小牧市静川台地)地表下にも分布していることが確認されている。

 従って、当時の石狩低地帯は海峡となり、日本海と太平洋とがつながっていたことが伺われる。ステラー海牛やヒゲクジラ類などの海洋性生物は、石狩から苫小牧の間を群れで泳ぎ、二つの海を自由に行き来していたと考えられる。

ステラーカイギュウ(ステラー海牛) Steller's Sea Cow 絶滅した海藻食( 草食動物)の海生哺乳類の1種。1741年にロシアの探検家ベーリングと医師のステラーによって発見された。ベーリング海およびコマンドル諸島周辺に生息していたが、68年に最後の1頭が射殺された。体長約8m、体重5900kgに達した。一般にカイギュウという名称は、ジュゴンやマナティーなどの総称にもつかわれている。 分類:哺乳綱ジュゴン目(海牛目)ジュゴン科。ステラーカイギュウの学名はHydrodamalis gigas

 石狩低地帯で見られるような約120万年前の寒冷な環境を示す化石は、渡島半島の黒松内低地帯、国縫―今金―瀬棚地域、十勝平野、根釧台地及び天北地域などの周辺丘陵に分布する地層からも産出している。

 約120万年前の北海道島では、現在の低地帯周辺が海に覆われ、特に石狩低地帯は海峡のような環境であった可能性があり、それらの地域から産出した貝や海生哺乳類の化石から、寒冷な環境であったことが推定される。

 この時期の寒冷化を示す貝化石は、ベーリング海峡を含む北部太平洋沿岸域でも認められ、更に、現在、温暖な観光地として知られる地中周辺域でも同様な化石がみられる。

 特に、イタリア南部の地層から産出する北方系の貝化石は「地中海に来た北の客人」と呼ばれ、当時の海中温度(水温)は現在より約6〜8度低かったとされている。

 約120万年前の寒冷化は世界的に興ったものであり、その証拠が北海道各地の低地帯やその周辺丘陵(当時、海であった地域)に残されている。

 これらの地域は、やがて内湾から潟湖のような環境へ移行するが、これは、「気候ジャンプ」と呼ばれる約90万年前に起こった急激な寒冷化が影響していると考えられる。

 このような時代(前期更新世)を経た北海道島は、次の時代である中期更新世(約70万年前〜13万年前までの間)になって、より現代への姿に近づくこととなった。

 第四期は、地殻変動が盛んであった時代としても知られ、特に中期更新世はじめに起こった隆起運動は、北海道島の形成に多大な影響を与えた。

 太平洋側に広く開いた内湾であったもう一つの地域として、北海道東部の釧路地域がある。

 大阪湾周辺丘陵からは、長さ8mにもおよぶ巨大なワニ(マチカネワニ)の化石が産出する。この化石は、現在、赤道直下のマレー半島に生き残っているワニの先祖とされているものであり、熱帯性環境下にあった一つの証拠とされている。ベーリング海峡周辺地域におけるこの時期の堆積物からは、現在の北極に生息する貝化石が産出する。これは、温暖期に開口したベーリング海峡を通って、北極海に生息する種が南下したことを示唆している。

 当時の温暖化は世界的な現象であったが、その後、徐々に寒冷化が進み、約15万年前(中期更新世末期)に訪れた氷期では、海水面が−130m前後低下した。その結果、宗谷、津軽、朝鮮および対馬海峡が陸橋となり、日本海は湖になったと言われている。この時期、朝鮮、対馬陸橋を通ってナウマンゾウ、オオツノジカトラ、ヒョウといった大型脊椎動物が大陸から日本列島に移動し、その一部は北海道にまで渡ってきた。

新北海道古代史―1 旧石器・縄文文化(野村 祟  宇田川 洋編)

   石狩低地での千歳市キウス遺跡群

   キウス遺跡群 キウスいせきぐん 北海道千歳市にある縄文後期のキウス周堤墓群と、それに隣接するキウス4遺跡をいう。キウス4遺跡からも周堤墓がみつかり、土盛遺構や集落跡が発掘されている。

  周堤墓は、地表面を直径数メートルから数十メートルにわたってほり、そこから出た土を周囲に環状につみあげて周堤を形成し、擂鉢状(すりばちじょう)の中央部に数基から十数基の土坑墓をもうけたもの。かつては環状土籬(かんじょうどり)ともいわれた。土籬は土の垣根の意味。周堤墓は縄文後期後半、北海道中央部の石狩低地帯を中心につくられた集団墓地である。
  キウス周堤墓群は、千歳市東方約9km、札幌低地帯をのぞむ馬追丘陵(うまおいきゅうりょう)南西麓(なんせいろく)のゆるやかな斜面にある。この地域は、かつて千歳川の氾濫原(はんらんげん)にあたり、オサツトーとよばれた湖沼に面している。沼にそそぐチャシ川をはさんで大小15基が確認されている。最大のものは外径75m、内径45m、底面と周堤頂部との比高差は5m以上ある。いずれも周堤の一部に出入口がもうけられている。

  1921年(大正10)、河野常吉によって、はじめて存在が確認されたが、その規模からチャシとして理解されていた。64、65年(昭和39、40)の調査によって、1号周堤墓内から墓坑や立石が発掘され、縄文時代の集団墓地と確認された。キウス周堤墓群は、79年に国の史跡に指定されている。

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