石器時代 Stone Age 銅、青銅、鉄などの金属器がまだほとんどつかわれず、おもに石製の道具や武器すなわち石器が使用された時代。デンマークの考古学者トムセンによる時代区分では、人類は石器時代、青銅器時代、鉄器時代の順に発達したとされる。
石器が作られるようになる(オルドバイ文化) 260万年前
世界最古の石器は、エチオピアの260万年前のゴナ遺跡から発見されている。260万〜150万年前のおもな石器は、オルドバイ型とよばれる、まるい礫(れき)の一部を単純にうちわった石核石器である。オルドバイ文化は、このあとホモ・ハビリスや初期のホモ・エレクトゥスにもうけつがれ、100万年間ほどつづいた。オルドバイ文化と、このあとにつづくアシュール文化に代表される石核石器主体の時代をあわせて、前期旧石器時代とよんでいる。
オルドバイ文化の石器
今から約260万年前、アフリカにいた猿人が最初の石器をつくった。この世界最古の石器文化は約180万年前にさかのぼるもので、タンザニアのオルドバイ渓谷ではじめてみつかったことから、オルドバイ文化とよばれる。この文化はホモ・ハビリスによる石器文化をふくめ、100万年以上つづいた。古い段階の石器は、手のひら大の丸石や角礫(かくれき)を別の石にぶつけ、一端を打ち欠いて刃をつけた。これは礫器(礫石器)といわれ、片刃のものをチョッパー、両刃のものをチョッピング・トゥールとよんでいる。大型の礫器は骨をくだいて中の髄を食べたり、肉や植物を切るのにつかわれたと考えられている。しだいに用途別に種類も分化し、剥片(はくへん)をもちいて、獣の皮をはいだり、木をけずったりする石器もあらわれた。
石器時代の年代は地域によってことなる。東アフリカで250万年以上前の石器がみつかっているが、ヨーロッパでは約150万年前にはじまったとされている。中国では近年、約80万年前とされるハンド・アックスをふくむ大量の石器が南部のコワンシーチワン族自治区(広西チワン族自治区)から出土し、石器の年代見直しがされている。さらに最近では中国とアメリカの共同チームがホーペイ省(河北省)の泥河湾盆地で136万年前の石器群をみつけ、東アジア最古の石器の発見と話題になった
アシュール文化のハンド・アックス
フランスのサン・アシュール遺跡の名をとったアシュール文化のハンド・アックスは、アフリカでは約140万年前からつくられるようになったが、ヨーロッパでこのタイプの石器が広がるのは、約50万年前以降のことである。写真のアシュール文化のハンド・アックスは約70万年前のもので、タンザニアのオルドバイ峡谷で出土した。アシュール文化の石器の特徴は対称形であることだが、このハンド・アックスにもその特徴がみられる。
打製石器の作り方
石器の材料は、ヨーロッパでは石英の一種のフリントが有名だが、日本では硬質頁岩(けつがん)、黒曜石、玉髄など多種多様なものがつかわれている。石器製作技術にも石の特徴やつくりたい石器によって、さまざまな技法がある。ここではごく単純化した技法をしめした。右は製品である。ナイフ形石器は現代のナイフのようにもつかわれたが、柄につけて槍(やり)などになった。彫器は彫刻刀形石器ともいわれ木や角をけずったり彫刻するための石器である。尖頭器(せんとうき)は投げ槍や突き槍の穂先となった。
石器時代の狩猟採集用具
前8000年ごろと推定される石器時代の道具。左上は、樹皮をはいだもので、皿の代わりに果実などをのせた。左下の上から2つは、魚類などをつきさして捕獲するもので、その下は矢である。右のハンマーのようなものは、石の先端部分だけが発掘されたが、柄の部分を復元した粉砕したり切断する道具。右端の輪になった石の木材をとおしたものは、火をおこす道具。
12,000年前 中石器時代始まる
前1万年ごろに気候の温暖化とともに氷河が後退しはじめ、生活環境がいちじるしくかわったことから中石器時代がはじまった。旧石器時代から新石器時代への過渡期的時代で、おもにヨーロッパでつかわれてきた用語である。この時代の大きな特徴は、三角形や台形といった幾何学形細石器が数多く使用されることで、北西ヨーロッパの森林地帯では前7000年ごろにフリント製鏃(やじり)の弓矢なども発達したが、依然として狩猟採集生活がおこなわれている。そのため、文化的に旧石器時代とあまり変わりがなく、旧石器時代の終末期としてこの用語を使用しない学者も多い。
その終わりは文明がもっともはやく開いたメソポタミアで前4000〜前3000年ごろ、ギリシャ・エーゲ文明では前3000〜前2500年、ヨーロッパ西・中・南部ではほぼ前2000年である。ヨーロッパなどでは石器時代と青銅器時代の間に、銅器がつかわれた銅器時代を設定する見方もある。中国では前1600年ごろには青銅器時代になったといわれ、それは殷(商)の時代である。
250万年以上つづいた石器時代は、旧石器時代、中石器時代、新石器時代に3区分される。
旧石器時代
旧石器時代がもっとも長く、250万年以上前に猿人が石器をはじめて使用したときにはじまり、約1万2000年前までつづいた。この時代は狩猟採集生活をしており、はじめは自然石の端をうちかいて刃をつけたものを、やがて小型の剥片(はくへん)に加工してナイフ状にしたものなど単純な石器がつかわれていたが、人類の進化とともに、さまざまな石器が用途にあわせてつくられた。
旧人の時代には、石器も多様なものとなるが、10万年前ころからは穴をほって埋葬し、石器以外に骨角器なども使用するようになる(→ ネアンデルタール人)。旧石器時代の終わりごろ、旧人にかわって新人があらわれる。現代人とほとんどかわらない現生人類(ホモ・サピエンス)で骨角製の投槍器や槍先(やりさき)・銛先(もりさき)などの狩猟道具をはじめ生活を豊かにするためにさまざまな道具がつかわれるようになった。新人のクロマニョン人は宗教儀式に関係する洞窟絵画(どうくつかいが)をのこすなど、この時代に文化は大きく発達した。
彫り物のあるマンモスの牙
この彫り物は、2万5000〜3万年前のものとされ、ビュランとよばれる彫刻用石器(彫器)を使用してほられたと考えられている。チェコのモラビア地方にある後期旧石器時代の遺跡ドルニ・ベストニツェで発見された。この遺跡からは、100頭ほどのマンモスの骨が重なって発掘されている。
ガルゲンベルクのビーナス
オーストリアのガルゲンベルク遺跡で発見されたため、「ガルゲンベルクのビーナス」とよばれている。およそ3万年前につくられた蛇紋石製女性小像である。ビーナスといわれる女性像は、世界各地から発見され、この時代の地母神と考えられている。
ブラッサンプーイの貴婦人像
「ブラッサンプーイの貴婦人像」は、「フードをかぶった婦人」ともよばれ、人間の顔を精緻に表現したもっとも古い作品といわれる。後期旧石器時代の2万3000年前ころのものとされ、1894年にランド県のパプ・ア・ブラッサンプーイの洞窟で発見された。象牙に彫刻された像で高さが3.6cmしかない。サンジェルマンアンレーの民族考古博物館所蔵。
旧石器時代の骨角器
旧石器時代、持ち運びできる道具の多くは石や骨、マンモスの牙(きば)、シカの角などからつくられた。写真は投槍器(とうそうき)にほられたトナカイで、およぐ姿をあらわしていると考えられている。投槍器は槍(やり)をなげるときに力を増大させる棒状の補助用具である。この投槍器はヨーロッパで骨角器が発達したマドレーヌ文化期(1万7000年前〜1万2000年前)のもので、フランスの南西部の出土。上はマンモスの牙製、下は獣骨製である。マドレーヌ文化では牛やウマ、トナカイなどを彫刻した投槍器が数多くつくられた。
アルタミラの洞窟壁画
スペインのアルタミラ洞窟壁画は、1万3000年前ごろにクロマニョン人によって描かれた。後期旧石器時代、マドレーヌ文化期にあたる。牛やウマなどの動物、とくにバイソンを多く描いている。19世紀末の発見当初は、構図の巧みさなどから、旧石器時代のものとみとめられなかった。
260万年前 - 12,000年前 旧石器時代
石器時代を3区分したときの最古段階にあたる時期で、東アフリカで世界最古の石器が出土する260万年前をそのはじまりとし、2万〜1万年前に中石器時代(西アジアでは続旧石器時代)へ移行した時点を終わりとする。ただし260万年前以前にも、加工しない石や木などを道具としてつかったと考えられる。旧石器文化の背景には、死肉あさりから狩猟にいたる、野生の中・大型動物の獲得を目的とする生活戦略があったと考えられる。これに対し、西アジアで約1万年前にスタートする新石器時代(みがいてつくった石器で特徴づけられる)の背景には、農耕という生業形態があり、中石器時代および続旧石器時代(小型の石器で特徴づけられる)は、農耕の前段階として野生植物や小動物への依存が高まった時期と重なる。ただし、このような石器時代の区分は、ヨーロッパの状況をもとにしておこなわれているもので、他の地域にもあてはまるとはかぎらない。
アシュール文化の石器
日本の旧石器時代
日本の旧石器時代は、土器の使用開始以前の時代という意味から、先土器時代といわれることもある。
旧石器時代の狩猟
この旧石器時代人は日本の岩宿遺跡の資料をもとに、2万数千年前のオオツノシカ猟の様子を復元したジオラマである。晩秋の夕暮、共同で狩りをする岩宿人たちはオオツノシカを湿地においこみ、いままさにとどめをさそうとしている。2万数千年前はまだウルム氷期がつづいており、現在よりも温度は6〜7°Cほど寒かった。群馬県立歴史博物館提供
岩宿遺跡の調査発掘
岩宿遺跡の発見によって、日本の旧石器文化の存在がはじめて明らかとなった。1950年(昭和25)4月11〜20日におこなわれた第2回本調査(A地点)の発掘風景。明治大学考古学研究室は相沢忠洋の協力のもと、前年の49年9月11〜13日に予備調査をし、第1回の調査発掘が10月2〜10日にすでにおこなわれていた。これらの調査により、石器類や炭化物などの文化層が確認された。明治大学博物館所蔵
1949年(昭和24)岩宿遺跡からの石器の発見を契機に、日本でも旧石器時代の研究がはじまり、その後、北海道から沖縄まで日本列島全域でこの時代の遺跡が多数発見されている。
日本列島の旧石器時代は一時、原人(ホモ・エレクトゥス)段階の60万〜70万年前までさかのぼるといわれた。ところが、2000年(平成12)11月に日本でもっとも古いといわれた上高森遺跡で旧石器発掘の捏造事件(ねつぞうじけん)が明るみに出て、前・中期旧石器時代といわれた多くの遺跡の再検証調査がおこなわれた。その結果、日本での旧石器時代は、確実なところでは後期旧石器時代の約3万年前までとされ、現在中期旧石器時代のどこまでさかのぼるのか結論は出ていない。
中石器時代
1万2000年前ごろに氷河が後退しはじめ、中石器時代がはじまる。気候が温暖になると、ヨーロッパの大部分が森林になるなど食料が豊富になった。ヨーロッパではひじょうに小さい石器(細石器)が、シベリアや日本ではこの細石器の一種である細石刃(さいせきじん)が隆盛する。この時代は新石器時代への過渡期にあたり、依然として狩猟採集生活を主としており、農耕がまだおこなわれず、磨製石器も使用されていなかった。そのため石器時代を旧石器時代と新石器時代にわけ、中石器時代をもちいない学者もいる。
上高森遺跡 かみたかもりいせき 宮城県栗原市築館上高森の捏造(ねつぞう)された遺跡。70万年前にさかのぼる前期旧石器時代(→ 石器時代)の遺跡とされたが、旧石器捏造事件の発覚で再調査され、遺跡そのものが捏造されていたことがわかった。
旧石器発掘の捏造事件
2000年(平成12)11月、この遺跡の発掘を中心となってすすめてきた東北旧石器文化研究所の副理事長が、第6次調査中に発掘現場で石器をうめていたことが発覚。さらに副理事長は、北海道新十津川町の総進不動坂遺跡(そうしんふどうざかいせき)でも捏造工作をしていたこともみとめた。
副理事長はこの時点で、石器発掘の捏造工作をおこなったのは第6次調査と総進不動坂遺跡だけとし、上高森遺跡の以前の調査やほかに発掘に関係した33遺跡での捏造を否定した。しかし、考古学者の間からは、上高森遺跡で1995年にみつかった、石器が放射状にならぶ60万年前とされた特異な遺構をはじめ、副理事長がほかの遺跡で「発見」した旧石器時代の石器について、出土状況が平面的で不自然だとか、製作技術が新しいものがみられるなど、次々に疑問点が提示された。これらの遺跡や出土したとされる石器は再検証されることになり、教科書では、上高森遺跡の記述など旧石器時代に関する部分の削除や訂正がおこなわれた。
2001年10月には、副理事長が旧石器発掘の捏造は全国1道6県42遺跡でおこなった、と告白したことが明らかとなる。42遺跡の中には国の史跡に指定されていた宮城県岩出山町の座散乱木遺跡や宮城県古川市の馬場壇A遺跡もふくまれていた。また、山形県尾花沢市の袖原(そではら)3遺跡、福島県二本松市の原セ笠張遺跡(はらせかさはりいせき)、福島県安達町の一斗内松葉山遺跡(いっとうちまつばやまいせき)の3遺跡については遺跡自体が捏造されていた可能性の高いことがわかった。
再調査にあたった日本考古学協会などの前・中期旧石器問題調査研究特別委員会は、2002年6月までに、上高森遺跡をはじめ、馬場壇A、座散乱木、総進不動坂、袖原3、原セ笠張、一斗内松葉山、中峰C、小鹿坂(おがさか)、長尾根など31の旧石器時代の遺跡が捏造されたものである、との結論を出した。
相沢忠洋による「岩宿」の発見
1946年(昭和21)秋、相沢忠洋(ただひろ)は、群馬県新田郡笠懸村(現在は町)岩宿の赤土の崖(がけ)から黒曜石の剥片(はくへん)石器を発見した。以後、49年の春までに10個以上の石片を採集し、夏には長さ約7cmの槍先形石器を発見。縄文時代以前の先土器文化が日本に存在したことを確信する。同年、これらの石器をみせられた杉原荘介、芹沢長介ら明治大学考古学研究室のメンバーが現地をおとずれ、岩宿が旧石器時代の遺跡であることを確認した。69年に刊行された相沢の回想記は、この発見の模様を克明につたえている。
[出典]相沢忠洋『「岩宿」の発見―幻の旧石器を求めて』(講談社文庫)、1973年