マンモスの時代

マンモスの時代

    マンモスの時代(「日本人はるかな旅」河村 善也)

「氷河時代」  「人類の進化」

「第四紀」

   第四紀という時代

  シベリアの大地をあの毛むくじゃらで大きな牙を持ったマンモスゾウの群れが闊歩していたのは、何時の頃のことであろうか。それは地球の歴史の一番最後の時代、つまり第四紀という時代のことである。

 第四紀は約164万年前から始まり、現在もその中に含まれる。第四紀は更に、その始まりから約1万年前までの更新世と約1万年前から現在までの完新世に分けられ、更新世は約73万年前と約13万年前を境に前期・中期・後期に分けられる。

 456千万年もの地球の歴史の中で、第四紀はごく短い時代であるが、他の時代とは異なった際立った特徴がある。

 第一の特徴は、第四紀が、「氷河時代」と呼ばれるように、地球が全体に寒冷化した時代であったということである。地球には23億年周期で寒冷な時代が訪れることが知られていて、第四紀より前の寒冷な時代は古生代後期(石炭紀後期から二畳紀前期にかけて)である。その間の2億年以上、地球は全般に温暖であり、恐竜が陸上で栄えた中世代も全体に温暖な時代であった。第四紀の寒冷化は、第四紀になって急に始ったわけではなく、第三紀後半からその兆候が見られ、次第に寒冷化していったと見るのが正しい。

 第二の特徴は、この時期に著しく環境が変化したということである。第四紀は、ただ寒冷であったというだけではなく、その中で寒冷期と温暖期が繰り返し繰り返し訪れ、気温・降水量などの気候条件が大きく変化し、海水温や海流など海洋の諸環境も大きく変化したほか、海面の著しい上下運動に伴って海岸線も著しく変化した。そして植物相や動物相など生物的環境も繰り返し大きく変化したのである。

 第三の特徴は、この時期に我々人類が進化・発展を遂げたということである。この特徴は地球史の他の時代には全く見られない特徴なので、第四紀のことを「人類紀」と呼ぶこともある。マンモスの時代というのは、実は「人類の時代」でもある。

 マンモスと人類はそれぞれ別々に進化し、やがてはユーラシア北部で出会うことになる。

 後期更新世の後期にあれほど繁栄していたマンモスは、完新世の到来と共に滅び去ってしまったのに対して、人類は完新世になると更に発展して高度な文明を築き、今日の繁栄を謳歌しているのである。

完新世 かんしんせい 生代第四紀を更新世と完新世にわけたときの後のほうの時代。約1万年前以降、現在までをさす。沖積世、現世ともいう。70002000年前ごろは世界的に現在よりあたたかい時期があり、融氷がいちじるしいため、海水準が高くなり、平野部に深く海が侵入した時代があった(日本では縄文海進という)。人類の歴史上では中石器時代〜新石器時代( 石器時代)から現代まで、考古学上の編年では始まりがほぼ縄文時代の草創期に相当する。

 マンモスとは

「モンゴル帝国」

 マンモスとは、毛むくじゃらのマンモスゾウとその祖先やいとこを合わせたゾウのグループを指し、分類学的にはマンモス属というのがその正式な呼び名である。

上記の四種類のすべて絶滅種で、現在の地球上の何処を探しても見つからない。

   (更新世 こうしんせい 地質時代、約164万年〜約1万年前までの一区分で、第四紀の前半にあたる。洪積世、最新世、氷河時代ともよばれる。ホモ・エレクトゥス(原人)が出現し、現代人の段階まで進化した時代であり、考古学上の編年では旧石器時代と縄文時代草創期に相当する。

第四紀の「更新世の氷河」更新世には、海陸の分布はほぼ現在と同じになったが、陸地の4分の1は氷河でおおわれていた。アメリカ大陸では氷河がカナダをこえてアメリカまで分布を広げていた。アメリカ東部ではペンシルベニアまで広がり、東は大西洋から西はミズーリ川まで、五大湖地方やオハイオ、ミズーリ川の上に広がっていた。また別の氷床がロッキー山脈のふもとから南はミズーリ州セントルイスのあたりまで、東はミシシッピ川まで広がっていた。ロッキーやその他の山脈などではニューメキシコやアリゾナまで氷河が存在した。

ヨーロッパではスカンジナビア半島を中心に南東方向は北ドイツや西ロシアまで、また南西方向はイギリス諸島まで氷床が広がっていた。また別の広大な氷床がシベリアをおおった。

更新世の氷河の痕跡が、世界の各地にのこっている。アメリカの五大湖は氷河作用がつくった湖であり、グレートソルト湖などは氷床の発達と後退によってつくられた湖の名残である。日本の浜名湖も氷河に浸食された谷に、間氷期になって海水が流入し、古浜名湾が形成された。

 マンモスゾウが出現したのは25万年前頃とされるが、後期更新世になるとこのゾウはもう完全に寒冷気候に適応していた。

 シベリアやヨーロッパ北部に進出した人類がこのゾウと出会い、盛んにこのゾウの狩をしていたのは後期更新世の後半のことである。後半は寒冷期で、現在に連続する温暖な完新世(上記)のすぐ前にある最後の寒冷期(寒冷なため各地に氷河が広がった時代)と言う意味で最終氷期とも言われる。最終氷期の西ヨーロッパでは平均気温が、現在より613度も低く、現在のシベリアの気候に近かったと言われている。

 北極を中心とする北半球の広大な地域は何時の季節も真っ白な銀世界が広がっていたに違いない。ユーラシアでは、この銀世界の南側に、夏には緑一色になる広大な草原が西ヨーロッパからシベリアにかけて広がり、当時の気温低下に伴って陸化していたベーリング海峡の地域を経てアラスカまで広がっていた。

 又、北アメリカ大陸北半の大氷床の南側に接して同様の草原が広がっていた。この大草原は大氷床や海水に接した地域にあるために常に寒冷で乾燥していた。

 シベリアのほぼ全域はこの大草原に覆われていたが、ここがマンモスゾウの棲家なのである。

 このような大草原のことをマンモス・ステップ或いはツンドラ・ステップと呼ぶ。

 ツンドラ・ステップ

西シベリア低地 にしシベリアていち Zapadno-Sibirskaya Nizmennost' ロシア連邦中央部、シベリア西部にある大平野。西シベリア平原ともいわれる。西のウラル山脈と東のエニセイ川にはさまれ、南はカザフ丘陵とアルタイ山脈の山麓(さんろく)から、北は北極海沿岸まで広がる。面積約300km2。古生代の地層を基盤に中生代、新生代の地層が厚く水平に堆積(たいせき)してできた構造性の平野で、標高はほとんどの地域で200m以下。植生は北から南へツンドラ、タイガ、ステップと帯状に展開する。大半がオビ川とその支流の流域であるが、地形がひじょうに平らなことにくわえて、氷河が移動したあとにのこされた堆積物、モレーンによる堤防状の微高地が雪解け水の排水をさまたげるため、夏には北部から中部にかけて各所に広大な湿地が形成される。寒冷気候のため農業には適さないが、南部のステップは土壌が豊かな黒土(チェルノーゼム)のためコムギなどが栽培される。石油、天然ガスの開発が1960年代にはじまり、パイプラインが遠くヨーロッパ・ロシア、そして一部は西ヨーロッパにまでのびている。平野の南部をシベリア鉄道が東西にはしり、その沿線にノボシビルスクなどの都市がある。

 大草原、マンモス・ステップ

 シベリアで当時マンモス・ステップが広がっていた地域の大部分は、現在ではその南半にタイガと呼ばれるエゾマツ、トドマツ、カラマツ、トウヒ、モミなどからなる広大な針葉樹林が広がり、北側に向かって次第に樹木がなくなり、その北半はコケ類、地衣類、カヤツリグサ科、イネ科の草本などの生えた、じめじめしたチツンドラとなっていて、当時とは全く景観が異なっている。

 かつてマンモス・ステップがこの広大な地域に広がり、多くの動物を育んでいたということは、にわかには信じ難いことである。

 かつては、地球が寒冷化すると地表からの水分の蒸発量が減るために、第四紀の寒冷期は寒く湿潤で、温暖期は逆に暖かく乾燥していたという考えがあった。寒く湿潤というイメージは現在のツンドラにも当てはまるが、そこは動植物にとってむしろ不毛の地である。

 ところが、このような考えに合わない事実があることが既に19世紀末頃から、第四紀の哺乳類化石の研究者の間で知られていた。第四紀の寒冷期の堆積した地層からは豊富で多様な大型哺乳類の化石が見つかり、それらには草原を好む種類が多く含まれていたのである。その後、植物化石などの研究が進みデーターが数多く集まるようになると、科学者たちは第四紀の寒冷期が暗くじめじめした寒い時期ではなく、寒いがむしろ明るく乾燥していて、草原が発達した時期ではないかと考えるようになった。マンモスゾウが栄えた後期更新世の寒冷期、つまり最終氷期にもこのような草原がユーラシア北部から北アメリカにかけて大規模に発達していたことが広く認められるようになったのである。

 マンモス・ステップにはヨモギの仲間をはじめ、イチゴツナギ属などのイネ科植物やスゲ類、ワタスゲ、チョウノスケソウなど多くの種類の草が繁茂し、一部には矮生のヤナギやカバノキなども生えていたと考えられている。これらの植物は冬の乾燥と寒さに強い。マンモス・ステップにこのように多くの植物が生育したのは、そこに乾燥した場所や湿った場所、微高地や谷沿いの窪地など多様な環境があったこと、冬は寒いが積雪は少なく、永久凍土の発達が悪かったこと、夏の日差し量が多く暖かくて植物の生育に適した条件があったこと、更に夏に凍土がより深くまで融けて植物の根が土中に入り込みやすかったことなどによるものと思われる。

このような草原は、寒冷地に適応した植物食の哺乳類にとっては餌が豊富で、とても棲み心地のよい場所であったに違いない。

 マンモスゾウは、体の特徴ばかりでなく、その生活史や生態もよく分かっている。絶滅した動物でここまで解明が進んでいるものは、他にはないであろう。

 マンモスゾウの体の大きさや牙の形には、はっきりした性差が見られる。メスの体はオスより小さく、肩高を比べるとメスの成獣では2.62.9mオスの成獣では2.73.4mである。牙もメスの方が細く短くカーブも弱い。牙のカーブに沿って測った長さは、メスで1.51.8m、オスで2.42.7mと明らかな差がある。マンモスの牙は、メスをめぐってのオス同士の闘争に使われたために、このように性差がはっきりしているのだろう。牙はその他に冬の間、雪を掻き分けて餌となる植物を探すのに使われたり、氷を割るのに使われたり、樹皮を剥がしたり、植物を掘り起こすのに使われたり、或いは敵を威嚇するためにも使われたようである。

 マンモズゾウは夏に交尾し、22ヶ月という長い妊娠期間の後、春に子を一頭生むといわれている。

 マンモスゾウは完全な植物食の動物で、その成獣が一日に必要とする食物の量は90キロとも200300キロとも言われている。このためマンモスゾウは一日の大部分を餌探しと摂食に当てているらしい。食事の内容は、冷凍された遺体に残っていた胃の内容物や糞の化石の分析などから明らかにされている。大部分がヨモギ類やイネ科の植物など多くの種類の草で、その他にヤナギやカバノキなどの潅木の小枝や葉、或いはコケやヒカゲノカズラなども食べていた。マンモスゾウは食物をとるとき、現世のゾウがやるように自由自在に動く長い鼻を使って口に運んでいた。

 マンモス・ステップには、マンモスゾウの他に実に多くの哺乳類が棲んでいた。マンモスゾウが特徴的な構成員となっていたことから、それらは一括してマンモス動物群と呼ばれている。

 マンモス動物群の量的には、殆どが植物食の動物で占められている。マンモス・ステップの生態系では、そこに繁茂していた大量の植物が生産者となり、それを利用して多くの植物食の動物が生活していたが、更にそれを食べる肉食動物は非常に少なかったのである。

 このような、植物―植物食の動物―肉食動物の間の量的な比率は、何時の時代にも地球上の種々の生態系で一般的に当てはまるものなのである。

 後期更新世の後半にマンモス・ステップ生活していた旧石器時代人は、このような動物の中から特定の種類を選んで捕獲していたと考えられている。

 

 マリタ遺跡の人々は主にトナカイの狩りをして暮らしていたのであろう。マリタ遺跡の人々は、その他にマンモスゾウやケサイも少しは獲っていたようであるが、当時沢山いたはずのウマやパイソンが非常に少ないのは興味深い。

 狩猟対象となった動物は、旧石器時代人のグループによって大きく異なっていたようで、例えばウクライナのメジルチ遺跡では、マンモスゾウの骨で家が作られるほど多くのマンモスゾウが獲られていた。

 絶滅

 マンモス・ステップの哺乳類には、後期更新世末で完全に絶滅してしまったもの、或いは絶滅寸前の状態に追い込まれてしまったものが実に多い。

 寒冷のピークは二万年前頃で、その後は次第に温暖化し、一万一千年前頃には一時的な「寒の戻り」はあったが、一万年前を過ぎて完新世になると気候は更に温暖化して現在とほぼ同じ状態になった。このような気候の変化に合わせてマンモス・ステップは急激に縮小し、完新世になると完全になくなってしまって、そこには広大なタイガとツンドラが広がることになった。

 マンモス・ステップに適応し、そこの豊富な植物資源を利用して生活していた植物食の哺乳類は餌と棲み場所が急激に減少し、適応力があって他の地域へ移住できるものを除いては、マンモス・ステップの消滅と共に絶滅した。

 気候の変化とそれに伴う植生の変化が絶滅の原因とする環境変化説に対して、人類の狩猟による大量捕殺が原因とする過剰殺戮説がある。それの理由として、旧石器時代人がシベリアからアラスカにかけてのマンモス・ステップに広がった時期が、哺乳類の絶滅期にほぼ一致することである。マンモス・ステップにいたおびただしい数の哺乳類を片っ端から狩りながら北上東進したと考えるわけである。

 マンモス・ステップの大型哺乳類の絶滅に関しては、後期更新世末の温暖化によって、マンモス・ステップが次第に消滅していき、そこに適応していた哺乳類が棲み場所や餌を失っていったのは事実であろう。生息域が縮小し細かく分断されることによってこれらの哺乳類は強いストレスを受けて、場所によっては絶滅に追い込まれることもあっただろう。広大な地域でほぼ同時に大量殺戮が起こるという考えでは少し無理があるようで、環境変化による衰退と人類による「最後のとどめ」が原因と考えるのが妥当かもしれない。

 即ち、場所によっては衰退がそのまま絶滅につながり、場所によっては「衰退」+「最後のとどめ」が絶滅を引き起こしたということになり、場所によって様々な絶滅のパターンがあってもよいことになる。

 後期更新世末から完新世にかけての哺乳類の大量絶滅は、我々人類の活動とも関わって大変興味深い問題なので、これからも色々な資料を集めてその真の姿に迫りたいと筆者は考えている。

(古生物学  愛知教育大学教育学部教授 理学博士)

このページのトップへ