シベリアの氷河期の遺跡

シベリアの氷河期の遺跡と日本人

氷河時代

   祖先たちの大地・シベリア

 人類はもともと熱帯のアフリカで生まれた。世界中へ拡散していくときも、大部分の人びとは暖かい場所を選んで移動していった。其の中で、何故一部の人たちは極寒の北の大地を目指したか。

何故私たち日本人の祖先は、わざわざシベリアを通って日本列島までやって来なければならなかったか?

 シベリアが最もシベリアらしい季節、それは冬である。

 20011月、シベリアは半世紀ぶりという大寒波に見舞われていた。零下55度という観測史上1,2を争う最低気温を記録し、あまりの寒さに町中の消火栓が凝りついてしまい、消防団が駆けつけても火を消せない事態が続出した。消火栓を復旧させた消防団員たちに火事の知らせが届き、水を出し、放水しようとホースを火に向けたとたん、ホースから噴出す水が零下50度の空気に触れた瞬間氷となり、火に届くことはなかった。

 冬のシベリアは我々の想像を遥かに超えた恐ろしさを秘めている。他の場所の経験や常識が通用しない危険な場所である。

 こんなところに本当に日本人のルーツがあるのか。それも今から何万年も前という太古の昔に、 我々の疑問が深まるばかりだった。

 イルクーツクからブリヤードに向かうシベリア鉄道は、世界最深、1.600m以上の深さを持つ「神秘の湖」バイカル湖の岸を時速60キロ前後のスピードで3時間にわたって走る。厳冬のこの時期、湖の厚さ1m近い氷に完全に覆われ、一面の雪原である。

   イルクーツク Irkutsk ロシア連邦、東シベリア南部にある都市で、イルクーツク州の州都。イルクート川とアンガラ川の合流点に位置する。シベリア横断鉄道がとおり、工業・商業の一大中心地となった。大規模な水力発電施設があり、航空機・自動車・建築資材・鉱業機器・繊維・皮革製品などが生産される。東シベリアの文化の中心地でもあり、歴史博物館や美術館、劇場、交響楽団、大学をはじめいくつかの高等教育機関がある。人口は587200(2001年推計)

1652年にコサックの拠点として建設され、モンゴルや中国へ通じるルートにあるため、毛皮や金の交易所として発展した。また、ロシア政府によって流刑地とされた。1898年にシベリア横断鉄道がしかれ、工業化が急速にすすんだ。

  シベリア鉄道 シベリアてつどう Trans-Siberian Railroad ロシアのモスクワから、シベリア南部を横断して日本海岸のウラジオストクにいたる幹線鉄道。全長9297km。狭義には、ウラル山脈東麓(とうろく)のチェリャビンスクからオムスク、ノボシビルスク、クラスノヤルスク、イルクーツク、チタ、ハバロフスクをへてウラジオストクまでの7416km

 ブリヤード人は人口42万。数の上ではシベリア最大の少数民族である。何時の時代からシベリアに住み続けているのか、はっきりしたことは分からない。一説によれば、モンゴル高原で馬を追っていた遊牧民が北に移り住んでブリヤード人になった、とも言われる。

 いずれにしても、ロシア人がシベリアに進出したのは高々400年余り前だから、それよりずっと昔の話である。即ち、少数民族と言うより、「先住民族」と言うべきであろう。彼らは、まだ他の誰もがこの寒さを克服するすべを知らなかった遠い昔から極寒の大地で生き抜いてきた、たくましい先住民族なのだ。

 イルクーツクを出てから7時間、ブリヤード共和国の首都ウランウデの中央駅に着く。日本からの直線距離は凡そ3.000キロ、時差は僅か1時間という意外に近い場所である。しかし、我々は乗り継ぎの関係で、一旦モスクワまで行き、引き返すようにブリヤードの着いたのは日本を出てから3日後であった。

   ブリヤード人の住む村・マクソホン

 今回、我々の最終目的は、ブリヤードのウランウデの街ではなかった。日本でDNAの検索をした際、一つの重要な情報を手に入れた。データーベースから探っていった結果、縄文人のDNAと完全一致するブリヤード人の住む村を特定することができたのである。村の名はマクソホン。ウランウデから東に25キロ、車で雪道を4時間。

 冬の間、村に向かう公共交通機関は一切無い。バスをチャーターして村に向かうことにした。激しく揺られながらウラウンデの街を抜け、地平線まで続く雪の草原をひた走る。所々に牧柵のようなものが張り巡らされている。ブリヤード人は昔から馬や羊の牧畜を行ってきた。夏は一面緑の大草原で家畜が草を食む風景見られるに違いない。

 村に近づくにつれて、意外にも雪の量が減ってきた。すさまじい風のため、積もった雪が吹き飛ばされてしまうらしい。

 そんな吹きさらしの大雪原の真っ只中に、目指すマクソホン村は現れた。人口1600。この辺りでは比較的大きな村である。

 村に入ると、ブリヤードの民族衣装で着飾った大勢の人びとが、村の中心に向かって歩いて行く。224日、この日はブリヤードの新年にあたる。

「サガルガン」という祭りの日なのだ。パレードが始った。

 パレードの行き交う間、馬や橇に乗った村人の顔に釘付けになっていた。日本人の顔にあまりにもよく似ているのだ。ブリヤードに入って以来、確かに日本人のルーツの地と言われるだけあって、日本人に似ている人も少なくは無い。だが何か違和感がある。細長い目、極端に平べったい顔。 大多数の人は日本人と言うよりモンゴル人に近いという印象だ。

 ところがここマクソホン村は、目の前を通り過ぎる村人の顔はまさしく日本人そのものだ。何故、この村の人たちはここまで日本人によく似ているのか。

 そもそも遺伝学者がこの村でDNAサンプルを採ったのは、純粋なブリヤード人の遺伝子を手に入れたいという理由からだった。ブリヤード共和国にもブリヤード人以外の民族が少なからず暮らしている。特に革命後、数多くのロシア人が移り住み、ブリヤード人との間で混血が進んだ。特に都市部で著しい。

 比較的純粋なブリヤード人の遺伝子が残されているのは都市から遠く離れた村である。と言うことで、比較的純粋な遺伝子を残しているブリヤード人と言うことになる。

 日本人にそっくりなシベリア先住民族は、ブリヤード人だけではない。シベリアを代表する先住民族ヤクート人、北緯70度のツンドラでトナカイを追うドルガン人、極東の大河アムール河で魚を捕って暮らすウリチ人。 広大なシベリア全土に、日本人によく似た人びとが散らばっている。

 シベリアの人びとと日本人がどこかでつながっていると考えるのはごく自然なのではないか。そのことを補強するように、最新の遺伝子研究も、日本人の祖先と北方諸民族との強い近縁関係を示唆しているのである。

 だが問題は残される。シベリアを日本人のルーツの地とするためには、縄文時代以前の太古の昔にシベリアに人が住んでいたこと、そしてその人びとが確かに日本列島まで移動してきたこと、この二つを証明しなければならない。

 マクソホン村は過去が無い

 村の歴史が80年に満たない。つまり、マクソホンは、ロシア革命後に作られた村なのである。ブリヤード人の生活形態はもともと、良質な草を求めて家畜とともに移動する「遊牧」だった。ところがロシア革命後、生産性の低い遊牧は国家経済に貢献しないという理由から、草原を自由に移動していたブリヤード人の人々は一ヶ所に集められ、集団農場で家畜を飼って肉を生産する生活に切り替えさせられた。このとき初めてブリヤード人は定住して村を作ることを知ったのである。

 歴史を知るためには、残された手段は考古学ということになる。ところがここはシベリアだ。 日本のように始終そこらじゅうを掘り返して道路や建物を造っている土地ではない。かりに遺跡があったとしても、人跡未踏の広大なシベリアであおれが発見され、しかもきちんと調査が行われることなど、ごく稀なケースでしかない。

 がそんな稀なケースに該当する幸運な遺跡があるのである。それもそこらの平凡な遺跡ではない。世の考古学者を驚かせ、常識を覆した世界的な遺跡なのである。

 発見された氷河期の遺跡・マリタ遺跡

 時は1928年、日本で言えば昭和の初めに時計を戻さなければならない。

 3月、シベリアの長い冬から解き放たれた子供たちは、待ちかねたように表に飛び出し、降り注ぐ陽射しの中、雪野原を駆け回る。1928年の春、そんな子供たちの中に、奇妙な形をした白い塊りを橇がわりにして遊ぶグループがあった。何に乗って遊んでいるのだろうと近づくと、その白い塊りは一抱えほどもある大きな動物の骨だった。どうやら肩の部分の骨らしい。だがこんな大きな動物は見たことが無い。骨は近くの大学の解剖学教授のもとに届けられた。教授は即座に言った。「これは大発見だよ。氷河期のマンモスの骨だ」。

 雪解けを待って直ちに考古学者による発掘が開始された。橇代わりに使われていた骨を掘り出したのは村の二人の農民だった。前年の秋、物置を造ろうと地下室を掘っているときに、深さ1mほどの土の中から見つけたという。農民の指し示す辺りを掘り下げると、予想どうり大量のマンモスの骨や牙が姿を現した。更に、考古学者たちを興奮させたのは、散乱する骨の間から数多くの石器や火を焚いた炉の跡が見つかったことだった。炉の中には生々しい灰まで残されていた。

 一定期間この場所で人が生活したことは明白だった。

 翌年から範囲を広げて行われた調査でも発見は続いた。直径4mほどの円形の住居跡、幼児が埋葬された墓、そして誰もが目を見張ったのが、マンモスの牙から作られた女性の人形、いわゆるビーナス像だった。慎重に土を落としていくと、精巧に彫り込まれた顔の表情までが浮かび上がってきた。

 氷河期の人間がこれほどの技巧の造形物を作ったとは、世界でもほんの数例しか報告されていなかった。この遺跡はただものではない。発掘に携わった全ての人が確信した。

 遺跡は村の名をとって「マリタ遺跡」と名づけられた。掘り出された骨をイオニウム法という分析手法で測定したところ、年代は二万三千年前。

 「シベリアで氷河期の遺跡が見つかる」の報は世界中の考古学者たちの間を駆け巡った。間違いなく、氷河期の真っ只中、確かにシベリアで人が暮らしていたのである。

   太古の民の居住地

 マリタの村は、寒村という言葉がぴったりのうら寂しい農村だ。時折通過するシベリア鉄道の列車の音だけが、雪に埋もれて静まり返った村の中にこだまする。

 二万三千年前、太古のシベリアの人びとが暮らした遺跡には、残念ながら建物が建ってしまい、当時の様子を想像することは難しい。

 発掘の結果から推定されるマリタの居住地の様子は!!

 人の背丈を少し越えるくらいの円錐形のテントのような住居が7軒から10軒ほど列状に並ぶ。テントにはトナカイの毛皮が何枚も被せられ、裾は風でめくれ上がらないように石でしっかり固定されている。外から見ると住居全体が毛皮を着たような、いかにも暖かそうな造りである。中に入ると中央に炉がしつらえられ、赤々と火が燃えている。テントのてっぺんには煙出しの穴。そして床には毛皮が何重にも敷かれて地面からの冷気を遮断している。高台の上に立つ居住地からは雄大な風景が広がり、足元の崖下には川が流れ、その向こうには当時、大きな湖が広がっていたと考えられる。更にその先は、地平線まで続く大平原。ここからならまわりの様子が手に取るように良く分かり、安心して暮らせたに違いない。

    

    

  70数年前、世界の考古学会で鮮烈なデビューを飾ったマリタ遺跡も、かつては国家の手厚い保護を受け、経済的にも恵まれていたが、ソ連崩壊後、軒並み財政難に陥っている。 掘りたくても資金がなくて殆ど発掘できないという状況が続いている。

 そんな厳しい状況の中、夏の間、村の住宅に住み込み、自炊生活をしながら少しずつ発掘を続けているのが、イルクーツク大学のヌドベージェフ教授たちグループである。「マリタの主」のような人物である。「将来は博物館を作りたい。そこに世界中の研究者を招いてこの遺跡について語りあいたい。でもそれが夢ということは分かっています」

   シベリアと日本をつなぐ小さな石

 シベリアでは、マリタ遺跡をはじめ、これまで200近くの氷河期の遺跡が発見されている。それらを総合して考えると、今から三、四万年前に初めてシベリアに進出した人類は、二万年前頃までには広大なシベリアの各地に拡散した、というシナリオが描けるようになった。

 しかし、まだ問題が残されている。太古のシベリアの人びとは本当に日本列島まで移動してきたのか?

 この難問に立ち向かったのが、札幌大学の考古学者木村英明教授だ。

マリタ遺跡を掘ったメドベージェフ教授とも親しく、まだシベリアへの外国人の立ち入りが厳しく制限されていた旧ソ連時代、日本の考古学者として初めてマリタ遺跡を訪れたシベリア考古学の第一人者である。

 「シベリアの旧石器文化」(北海道大学図書刊行会)はこの資料を得る一番のベースとなった文献である。

 この本の内容を理解するのは大仕事だった。何よりも面食らったのが、随所に挟み込まれている石器の実測図である。一つのページに石器の図がぎっしり書き込まれ、見ているだけで目が回る。

 木村教授の本をめくっているうちに興味深いものを見つけた。それは石器に違いないのだが、我々が普通に考える石器の範疇からは大きく外れたものだった。一般に石器といえば、ナイフとか槍先とか、形を見れば大体の使い道が推測できる。しかし、その石器は違っていた。長さは僅かpから2p、幅に至ってはほんの数ミリ。鉛筆の削りかすと間違えそうなくらい薄くて小さい。ただ、削りカスなら形はまちまちになるはずなのに、どれもこれも整った長方形をしている。 どうもある意図をもって作られたものらしい。

 考古学者はこの特徴的な石器を「細石刃という名前をつけた。読んで字のごとく「細かい石の刃」である。この細石刃が、驚くべき知恵の産物であった。

 木村教授の本によれば、この細石刃は氷河期のシベリアで生まれ、シベリアの人びとの間で広く使われた独特の石器である。

 だが細石刃が見つかっているのはシベリアだけではない。実は同じ形式の細石刃が、日本でも数多く見つかっているのは世界でもシベリアと日本だけだと言ってもいい。

 細石刃を使っていたシベリアの人びとが、その技法を携えて日本列島にやってきたのではないか?

 シベリアで細石刃が使われるようになったのは、今から二万一千年前頃のことである。日本で現在見つかっている一番古い細石刃は、その千年後、北海道・千歳で見つかったのは約2万年前のものである。ということは、21千年前から2万年前頃、シベリアから日本列島にひとつの文化の流れがあったと考えるのが自然だ。

 34万年と言う大昔から縄文時代に至るまで、ほぼ途切れることなく続いている可能性があるという。

 こうしたシベリアから日本列島への人の流れは、全地球的な人類の歴史を紐解いてみるとますます確かなものとなる。

10万年前に始った人類拡散の世界的な流れの中に矛盾無く位置づけることができるのである。

 人類はもともと熱帯のアフリカで生まれた。世界中へ拡散していくときも、大部分の人びとは暖かい場所を選んで移動していった。其の中で、何故一部の人たちは極寒の北の大地を目指したか。

何故私たち日本人の祖先は、わざわざシベリアを通って日本列島までやって来なければならなかったか?

(浦林 竜太 NHK教養番組部ディレクター、 戸沢 冬樹 NHKスペッシャル番組部ディレクター)

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