マンモスを追う祖先たち

マンモスのあとを追う祖先たち

 何故シベリアから日本列島へ

 何故、私たちの祖先はシベリアに進出したかを前回までで明らかにした。

 祖先たちは、類稀なる動物資源を手中に収めるために極寒の地に進出したこと、寒冷地を生き抜く中で様々な知恵を発達させていったことを見てきた。

 次に何故、祖先たちはシベリアから日本列島に渡ってきたか。

 知床連山を望む北海道・野村崎。15年ほど前、漁師の中村さんがウニ漁の途中に海中から洗濯板のような物体を引き上げた。その時は不思議に思ったものの、自宅に持ち帰りそのままほっておいた。その後、2年後テレビのニュースを見て、自分が海中から引き上げた物体と同じものが映っていた。アナウンサーはそれがマンモスの歯であることを告げていた。慌てて中沢さん役場へ持っていき、マンモスの歯であることを知った。年代を調べてもらったら二万年前のものであることがわかった。

 何故、シベリアに棲息していたマンモスが、二万年前、日本列島にやってきたのか。実は私たちの祖先がシベリアから日本列島へ渡ってきた理由も、マンモスの移動と深く関っていた。

 「マンモスは何故絶滅したか」と題された講演で、北海道大学の地理学者福田正巳教授。

 「マンモスは長い氷河期を通じてシベリアで棲息した動物である。しかし、シベリア最北部の北極海沿岸に限って言えば、何故か全くマンモスが棲息していなかった空白期間がある。 今から二万年前を中心とする数千年間のことである。これはどういうことか。実はマンモスがシベリア最北部から消えた二万年前頃と言うのは、氷河期(正確には最終氷期)の中でも最も寒い時期に当たる。今より平均気温は10度以上も低く、夏は緑の草木に覆われた豊かな土地も、岩と氷だけの「極地砂漠」と呼ばれる不毛の大地と化した。この気候変動に追われるようにマンモスは南へ南へと移動を始め、其の一部が北海道にやって来た。このとき人びともまた、南へ避難するマンモスを追いかけて日本列島にやってきたのではないか?」

 氷河期といっても常に寒いわけではなかった。最近の研究では、暖かい時期と寒い時期が繰り返し訪れたことが分かってきた。暖かい時期には今とそんなに変わらないくらいまで気温が上がった。逆に最も寒い時期には、冬の内陸部では零下80度まで下がったと言われている。こうした大寒冷期が、人類がシベリアに進出を果たした後、今から二万年前から一万八千年前にかけて襲ってきたのである。

 福田教授尾の話は、シベリアを襲った大寒冷化の時代、南に移動するマンモスを追いかけて、私たちの祖先も日本列島にやって来たのではないか?

   ツンドラ

シベリアのツンドラ

針葉樹林帯と永久凍土層地帯の間に広がる寒冷なツンドラでも、短い夏には蘚類(せんるい)や地衣類、イネ科植物、低木のヤナギ類が姿をあらわしてうつくしく色づく。

ユーラシアと北アメリカの北極圏にはツンドラという特殊な群系が広がっている。その特徴の1つは最大数百メートルの深さに達する凍土または永久凍土である。2つ目の特徴は、太陽が冬の間地平線からほとんど昇らず、夏は沈まないけれども高く昇ることもない白夜であるために、太陽からは微弱なエネルギーしか受けないことである。3つ目の特徴は地域的なもので、大陸北端一帯が、寒くて高湿度の砂漠的気候という矛盾した環境をつくりだしていることである。砂漠的気候になっているのは年間降雨量が少ないためで、湿度が高いのは水分がほとんど蒸発しないためである。

これらの条件を反映するツンドラは、平坦だったり起伏があったりするが、樹木は少なく、植物の生育期には一面の水浸しになる。気温がある程度上昇すると、雪がとけて地面の浅いくぼみに流れこみ、地面の上層部だけが解凍するが、その下にある永久凍土層が排水をさまたげるためである。これらの水たまりの中や周辺に生える植物のほとんどは、コケ類やシバのようなスゲである。それよりいくぶん高い位置にある乾燥した地面には、地衣類やヒースとよばれる常緑の小形低木、落葉樹のヤナギやカバノキ、およびさまざまな野草が群生する。花の多くは小さな群落をつくって、樹木を匍匐(ほふく)性の低木にかえてしまうほど強いツンドラの風から身をまもっている。

昼間が長い生育期には、ツンドラの水たまりから大量の昆虫(主としてカ:蚊)が発生し、これらの昆虫の大群にひきよせられて鳥の群れが渡ってきて、餌(えさ)をとり、繁殖する。このように豊かで活気のある地域とは対照的なのが、内陸から吹く夏の乾燥した風によって一部の谷に形成される、生物がほとんど存在しないポーラーデザート(極地砂漠)である。

 シベリアを襲った大気候変動

 シベリアでの調査経験の豊富な地理学者の五十嵐八枝子氏に氷河期のシベリアの環境変化について調べてもらった。

 本当にシベリアで、マンモスを、そして人びとを日本列島に向かって押し出すような環境の激変が起こったのか?

 五十嵐氏はロシアから研究論文を取り寄せ、自らの調査結果も合わせて、氷河期のシベリアの環境変動を丹念に追った。


35千年前のオープン・ウッドランド(資料提供・五十嵐氏)

2万年前のシベリアで縮小したオープン・ウッドランドは南下した。


最寒冷期の気温の変動

 シベリアの「オープン・ウッドラウンド」

「大陸性の気候のシベリアは、冬はものすごい寒さですが、夏は実に暖かいのです。今でも内陸の盆地では+40度近くまで気温が上がることがよくあります。氷河期もそれは同じでした。夏は気温が上がり、緑の草木に覆われました。動物の成長に適した豊かな環境だったのです」 実際、氷河期のシベリアには、こうした豊かな環境を示す「オープン・ウッドランド」と呼ばれる地域が、幅広い帯びのように東西に連なっていた。「開けた森」。疎林の間に草原が広がるアフリカのサバンナのような場所だったと考えられている。(「北限の古代史―1」「原人のフロンティア・極寒の地へ進出」)

 マンモスなど大型動物の生育に最も適した植生帯が、三万五千年前の植生図では、大きな面積を占めていることがわかる。広大なシベリアの78割が大型動物の棲息するオープン・ウッドランドだった。 ところが、氷河期で最も気温が下がった二万年前の植生図では、細い帯のようになってしまっている。

 北から「極地砂漠」という岩と氷だけの不毛の土地が拡大し、標高の高い南シベリアでは、氷河と周辺の荒涼とした土地が広がった。マンモスの生育に適した地域は、寒冷化によってここまで縮小されていった。

 オープン・ウッドランドが南下したため、シベリアの東端、現在「極東」と呼ばれている辺り。以前・三万五千年前は、深い森に覆われ、マンモスなどの大型動物の生育には適さなかった処が、寒冷化によって森が南へ退いたため、その後を埋めるようにオープン・ウッドランドが南下した。

 これと同じ変化が日本列島でも起こった。北海道から東北北部にかけて新たに生まれた。 まさにシベリアから日本列島にマンモスを導く回廊が生まれたということである。この劇的な環境変動の結果、今から約二万年前、日本列島にマンモスがやってきたのである。

 動物化石の研究で、日本列島で見つかったマンモスの化石はまだ10点に満たない。一方、シベリアにより近い中国東北部では、ケサイやバイソンといったマンモス動物群の動物たちと共に、マンモスの骨も大量に発見されている。南へ逃れたマンモスの大部分はシベリア南部から中国東北部へ広がり、日本列島までやってきたのは極一部だったと考えるのが、今のところ妥当である。

   シベリアからの旅立ち

 太古のシベリアの民が生み出した究極の狩猟具・細石刃。

この細石刃こそ、シベリアの祖先たちが大寒冷期を乗り切るために大きな役割を果たした石器なのだ。 その秘密は小さな小さなサイズにあった。これまでの石器とは比べ物にならないくらい小さくて薄い細石刃には、メリットがあった。携帯に便利な点である。皮袋にでも入れておけば百や二百持ち運ぶのは何でもない。この利便性が、大寒零化の危機に見舞われたシベリアの祖先たちを救うことになるのである。

彼らにとって狩の道具は、決して減らすことができない。これがなければ動物を獲ることができない。石がなくなったら、それこそ死活問題である。そんな時に、小さくて軽い細石刃は、持ち歩きに最適であった。

軽量でしかも持ち歩く石を節約することができる細石刃は、寒冷化の極に達した二万年前以降、シベリアの人びとが移動生活の度を強める中で瞬く間に広まっていった。重い石を運ぶことから開放されたハンターたちは、動物を追って何処までも移動していく。よい場所を見つけたら数年そこに暮らし、動物がいなくなったら又移動する。こうした移動を一生のうちに何度も繰り返し、子供や孫の代までそうした生活が受け継がれていく。このような何世代にもわたる移動の末、何千キロにも及ぶ距離を踏破して日本列島に辿り着いた人びとこそ、北からやって来た私たちの祖先だったのではないか。

それを物語るように、シベリアから日本列島の間に点在する遺跡からは、細石刃が見つかっている。そうした遺跡を結ぶと、シベリアから日本列島の間に点在する遺跡からは、細石刃が見つかっている。

 最も太いルートは、大陸からサハリン経由で北海道に渡来するルートだった。これこそ、当時、海を渡らずに地続きで日本列島に到達できる唯一のルートだった。 氷河期の最寒冷期、地球の広い範囲が厚い氷に覆われたため、海面は現在より100m以上も下がり、いまは海の底になっている部分が広く陸地化していた。大陸とサハリンの間の間宮海峡、サハリンと北海道の間の宗谷海峡はもともと水深が浅く、干しあがっていたのである。

 シベリアを旅立った祖先たちは、南に伸びる長い半島になっていたサハリンを通って北海道に到達する。 その先導を勤めたのが、寒さを逃れて南へ避難するマンモスなどの大型動物だったろう。

 北海道千歳市の柏台T遺跡からは、およそ二万年前の細石刃が見つかっている。シベリアのマンモスハンターが強力な狩猟具を携えて日本列島へやって来た確かな証拠である。

 北海道にやってきた人々の南には、更に未知の陸地が広がっていた。本州である。しかし間を隔てる津軽海峡は水深が140mと深く、海面が最も低下した最寒冷期でも陸化することはなかった。シベリアからの長い旅も、北海道で終わりを迎えるかに思われた。ところが厳しい冬の寒さが訪れて、氷河期の最寒冷期、津軽海峡辺りで年によってはマイナス30度以下まで気温が下がった。しかも日本海に沿って流れる対馬暖流は当時は存在せず、海水温も現在より10度近くも低かった。このため何年かに一度は海峡が凍ったと考えられる。祖先たちはこのチャンスに南の新天地・本州へと渡って行ったのである。ともかく、動物を追いかけて偶然辿り着いたアジア大陸の最果て、そこが日本列島だったのである。

 この列島は、「日本は海に囲まれた狭い島」。動物が豊かに棲息するには大陸のような広大な大地が必要なのである。「楽園」ではなかった。この現実を垣間見る遺跡が仙台市にある。富沢遺跡は「地底の森ミュージアム」。発掘面が全て全てドームに覆われ、二万年前を生きた祖先たちの生活の痕跡が生々しく遺されている。焚き火の跡、散らばった石器、その使用痕等など。

 発掘担当者が面白い分析をしている。

「二万年前のある日、富沢の地にやってきた3,4人の集団は、焚き火を囲んでひもじい一夜を過していた。ここ数日獲物はなく、やっと捕まえたウサギほどの小動物を分け合って飢えをしのいでいた」と言うのである。シベリアで見たような動物の捕獲は、太古の民にとって大事業であった。この状況分析は原日本人たちの苦渋に満ちた生活の一端を、的確に捉えているのかもしれない。

太古、ヒトは何故移動したのか。祖先たちの旅立ちはきっと、今より「もっとよい新天地」を求めてのことだったであろう。しかし、原日本人となった人びとの「当て」はハズレた。 遠い祖先たちがこの列島に居ついたことに、はじめ私たちは何かの必然を感じていたが、私たちの「当て」もハズレてしまった。「偶然」。たまたま日本列島にヒトがやってきたという「奇跡」を痛感した。     (浦林 竜太 NHK教養番組ディレクター  戸沢 冬樹 NHKスペシャル番組ディレクター) 

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