アカホヤ

アカホヤと火山灰

   アカホヤ・火山灰

火山灰 かざんばい Volcanic Ash 火山噴出物の中で粒子の直径が2mm以下のものをいう。粒子の大きさから命名されたので、爆発時にマグマから直接由来したガラス片や斑晶(はんしょう)片から、火山体をつくっていた火山岩の破片もふくまれる。

火山が噴火して、そのうちの細粒のものが噴煙として空中に放出され、風下側に散布され、空から地上に降下して堆積(たいせき)した火山灰を降下火山灰という。降下火山灰は、大きな火山噴火があった場合、その噴火にかかわったマグマの性質と噴火様式から特徴的な鉱物組成や形状、色調をもった火山灰層として広域にわたって地表面をおおう性質をもっている。このことを利用して、ある時代の地表面の同時性を証明することができる。

  広域テフラ

1976(昭和51)ごろから、約22000年前の九州姶良カルデラ(あいらカルデラ)から噴出した火山灰による広域テフラの存在が、日本列島やその周辺海域の広範囲にわたる降灰域の分布より明らかになった( シラス台地)。広域テフラの厳密な定義はされていないが、分布域がおおよそ5km2以上のものを広域テフラという。広域テフラは、総噴出量に換算すると101000km3以上になり、数百〜千キロメートル以上遠方においても地層としてのこるような大噴火に由来する。広域テフラは、大規模な降下火砕物が降下するようなプリニアン噴火や大規模火砕流堆積物、巨大火砕流といっしょに形成される降下火山灰が起源となっている。

日本列島では広域テフラの研究がすすんでおり、遠隔地間の地層や地形面対比や年代決定に利用されている。日本列島とその周辺地域における過去30万年間の広域テフラとして、ペクト山(白頭山)苫小牧(800900年前)鬼界(きかい)アカホヤ(6300年前)、鬱陵隠岐(うつりょうおき)(9300年前)、姶良Tn(22000年前)、クッチャロ庶路(しょろ)(3万〜32000年前)、支笏(しこつ)1(3100034000年前)、大山倉吉(4300055000年前)、阿蘇4(7万年前)、鬼界葛原(かつはら)(75000年前)、御嶽第1(8万年前)、三瓶木次(さんべきすぎ)(8万年前)、阿多(85000年前)、洞爺(とうや)(9万〜12万年前)、阿蘇3(105000125000年前)、クッチャロ羽幌(10万〜13万年前)、阿多鳥浜(23万〜25万年前)、加久藤(かくとう)(30万〜32万年前)がある。

  テフロクロノロジー

火山噴火史を降下火山灰層の編年を通じて明らかにしていく学問分野を、火山灰編年学(テフロクロノロジー)という。火山灰編年とは、火山灰の形成様式による瞬時性と広域性という特性を編年に利用するものである。ある火山灰が地層から発見されたとすると、その地層内に年代の面が決定できる。また、各地の地層中に同じ火山灰がみつかれば、広域にわたって同時間面だということが決定でき、地層の対比に有効な地層(鍵層:かぎそう)として利用できる。

火山灰編年学の適用範囲は多岐にわたる。地域的には、地形変動、土壌形成、埋蔵文化財、植生変化、もちろん火山活動の年代学的な面での問題解決にも利用されてきたし、深海底堆積物や氷床中のテフラの研究は、地球規模の気候変動や海水面変動などの規模や年代の解明に利用されつつある。

火山灰の堆積した地層のようす

写真は、伊豆大島の島内周回道路沿いにある地層切断面。ここには、伊豆大島の噴火によって堆積した、23000年、100回分の火山灰層が観察される。ちょうど木の年輪のように、一つの縞模様が1回の噴火活動に相当する。それぞれを観察することで、過去の噴火についてのさまざまな情報をえることができる。

 シラス台地 シラスだいち 南九州に広く分布する火山噴出物の堆積(たいせき)した洪積台地。シラスは白砂または白州を意味する。鹿児島県から宮崎県にかけて、火山灰や浮石などの火山噴出物が数メートルから150mの厚さで堆積する。これらは約22000年前の姶良(あいら)カルデラや阿多カルデラが形成された時期の大噴火活動によって流出したり空中降下したものが堆積したと考えられている。

堆積当時は広大な平原だったが風食・水食に弱く、浸食がすすんで台地化した。台地表面は平坦だが透水性が大きいため台地の端からくずれやすく、10100mの垂直に近い崖(がけ)をもつ深い谷がきざまれている。台地上ではサツマイモなどの畑作がおこなわれているが、地下水位が深く、養分もとぼしいので土地を改良したり灌漑(かんがい)施設をととのえないと耕地としては適さない。

 火山噴出物 かざんふんしゅつぶつ Ejecta 火山活動によって地表に噴出された物質の総称。火山ガス、火山灰、火山礫(れき)、火山岩塊、火山弾、溶岩などがあるが、火山灰、火山礫などは、火山砕屑物(さいせつぶつ)ともいう。

 溶岩 ようがん Lava マグマが割れ目などをつたわって地表にながれでたもの。液状にとけている状態、また、ひえてかたまり、岩石となったものも溶岩という。液状の溶岩が山腹などをながれおちるものを、溶岩流という。

溶岩は、粘性によってながれるようすがことなる。粘性が大きいと、ゆっくりながれ、表面はゴツゴツした岩塊におおわれる。粘性が低いと、ときには、人がはしってもおいつけないほどの速さでながれる。このような溶岩は、ひえると表面に渦をまいたような状態でかたまっていることがある。前者をハワイではアア溶岩、後者をパホイホイ溶岩とよんでおり、そのまま、地質学上の用語となっている。

粘性の大小は、ケイ酸SiO2(二酸化ケイ素)の量によることが多い。ケイ酸が多い溶岩としては流紋岩質( 流紋岩)やデイサイト(石英安山岩)質溶岩があり、ほとんど流動せずに、火口で大きな塊(ドーム)となる場合がある。雲仙普賢岳の溶岩ドームは、この例である。ケイ酸が少ない玄武岩質溶岩では、表面はかたまっていても、中は流動しており、そのまま何キロメートルもながれることがある。これを溶岩トンネルとよんでいる。

流紋岩質の溶岩が急速に冷却すると、黒曜石のようなガラス質の岩石になる。また、溶岩があつくながれだして、ゆっくりかたまると、熱収縮によって柱状節理( 節理)ができることがある。

水中で、溶岩がながれだすと、表面が急冷して、ときに球状になり、さらにとじこめられたガスなどで中の圧力があがって球がわれ、次々と中のとけた溶岩がながれだして、また球状になるということがおこる。その結果、枕をつみかさねたような形の溶岩ができあがる。これを枕状溶岩とよぶ。海洋地殻が中央海嶺においてマグマから生産されるとき、その表面は枕状溶岩でおおわれる。枕状溶岩は地球表層にもっともひろく分布している岩石の状態だといえる。

  節理 せつり Joint 岩石の中に広く発達している割れ目で、それを境にしておたがいがずれうごいていないものをいう。不規則で複雑なものから、ある程度規則ただしく配列したものまであるが、ふつう前者を亀裂とし、節理としては後者をさすことが多い。成因的には引っ張りによる破断節理と圧縮による剪断(せんだん)節理があり、火成岩の冷却収縮や地下深部からの上昇隆起による圧力解放、およびいろいろな地殻変動に関連して形成される。

割れ目の発達の仕方から、兵庫県玄武洞や福岡県芥屋の大門(けやのおおと)などの火山岩でみられる柱状節理、長野県の鉄平石や香川県屋島の畳石で知られる板状節理、北海道根室の車石の放射状節理、長野県木曽川の腰掛石にみられる方状節理、花崗岩の方状節理が風化してできる球状節理などがある。節理は岩石にはたらいた応力を推定するのに利用されるが、また浸透水の流路となって岩石の風化や浸食の作用を進行させるため、地すべりといった災害にも深く関連している。

層雲峡の柱状節理

層雲峡のなかでも、小函(こばこ)にある天城岩周辺は豪壮で規則ただしい柱状節理の絶壁として名高い。大雪山からの火砕流堆積(たいせき)物が、石狩川に浸食されてつくられた奇勝である。近年は崩壊がいちじるしく、1987(昭和62)に岩石崩落事故が発生して犠牲者をだした。現在は監視員の指導のもとで見学がおこなわれている。

噴出直後の溶岩

地表に噴出したばかりの溶岩は、高温のため赤くなっている。表面から温度がさがっていって、しだいに暗い色に変化していく。溶岩の流れやすさは、成分によって違いがあり、二酸化ケイ素が多くふくまれているほど粘りの強い溶岩になる。写真は、アフリカの火山からながれだした溶岩で、赤みをのこしたままインド洋にそそぐ。

パホイホイ溶岩流の跡

ハワイ火山国立公園には2つの活火山、マウナロア山とキラウエア山があるが、写真は、マウナロア山の溶岩流がかたまった跡。表面がなめらかで縞(しま)模様を呈するパホイホイ溶岩(縄状溶岩)流の跡である。

 雲仙普賢岳噴火 うんぜんふげんだけふんか 長崎県南東部の島原半島中央にある雲仙岳は、噴火をくりかえしてできた複合火山である。1657(承応6)1792(寛政4)のはげしい噴火が知られている。同年には、その側火山である眉山(まゆやま)の大崩壊によっておきた岩雪崩(なだれ)が、海にながれこんで津波を発生させ、死者約15000人といわれる大災害をおこした。被害は有明海全体におよび、対岸の熊本県にも被害が出た。

それから198年後の1990(平成2)11月に、鳴りをひそめていた最高峰の普賢岳山頂部から噴火がはじまった。915月にはデイサイト(石英安山岩)質の溶岩の噴出がはじまり、溶岩ドーム(溶岩円頂丘)ができはじめた。高温の火山ガスと火山岩( 火成岩)の混合物が高速で斜面をくだる火砕流が頻繁におこるようになり、63日には、死者40人と3人の行方不明者を出した大火砕流がおきた。この日以降も火砕流はつづき、家や畑を焼き、ふもとの島原市や深江町には深刻な被害をもたらした。また災害対策法によって立ち入り禁止の警戒区域が設定され、住民は避難生活をつづけなければならなかった。

1日数万から30m3の量で溶岩の噴出はつづいたが、19952月半ばに活動は弱くなった。火山噴火予知連絡会は、地殻変動、地震活動、溶岩噴出量の推移などから判断して、噴火はほぼ停止したと5月に発表した

それまでに噴出した溶岩の総量は約2m3。1792(寛政4)の噴火にくらべると約10倍の規模で、歴史記録にはない4000年前、1万年前の噴火に匹敵する大規模な噴火だった。噴出した溶岩の一部は斜面をくだり、一部は溶岩ドームとして山の形をかえた。1996(平成8)に平成新山と名づけられたこの溶岩ドームの標高は1486m、普賢岳の山頂は120m以上高くなった。

噴火がおさまったのちも、火砕流の堆積(たいせき)した斜面はしばらく不安定なため、雨がふると土石流をおこす危険はのこった。

雲仙普賢岳

雲仙岳最高峰の普賢岳(ふげんだけ)は、1990(平成2)11月、198年ぶりに噴火した。その後も活動はつづき、915月には溶岩ドームが出現しはじめ、同年63日におきた大火砕流では、死者40人と行方不明者3人をだす惨事となった。以降も火砕流は発生しつづけたが、952月には活動が弱まったため、同年5月、火山噴火予知連絡会は、噴火はほぼ停止したと発表した。

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